今回の三上翁寄稿については、若干の校正が必要であったため原文ママとならず、ご容赦願いたい。

 また、かなりの長文のため、本ブログ独特の物言い挟みとなったこと併せてご理解いただきたい。

 

拡散希望

経産省前脱原発テント座り込み日誌2022年4月7日版


【寄稿】侵攻から虐殺の露呈へと進むウクライナの動向から(三上治)

 いつも何らかの形でやる花見を、今年はしなかった。いや、テントひろばの面々がやった花見(3月27日)に出かけて行ったのだが、時間が遅れてしまって、これはもう終わっていた。連れ合いの仕事帰りに合わせて近所でやる、ささやかな花見も、今年はやらずに過ぎた。忙しくもあったが、どうも今年はそんな気分になれなかったのである。「櫻さん、ごめんなさい」である。やはり、ロシアのウクライナ侵攻(侵略)のことが重苦しくのしかかっているためだろう。僕らの気分を無意識に支配しているものと言っていい。なかなか眠れない。考えまいとしても、ついつい、ウクライナのことを考えてしまう。心地よく眠れるということができなくなってしまっている。

 今回のロシア発の紛争が、以前とは異質であることが問題である。日本は、戦後これまで、米国傘下の中立国家であった(意識、無意識に)。そのために、ロシア、中国に刺激されない国の立場があった。しかしながら、安倍晋三の集団的自衛権の行使容認論議は、仮想敵国を震撼させる事象(全世界かもしれぬ)であったと小生はみている。今回は、ロシアの軍事的な支配層というか、元首一人なのか、地政学的(地政学は、紛争を何ら解決しないようだが。(逆に恐怖心を煽っているようである))被害妄想、恐怖心は、以前からあった。そのためにロシアと近隣諸国との軋轢が、紛争へと導いている。過去の対ロシア戦争が物語っている。

 日本の戦後の立ち位置は、中立的である。これが、軍事独裁者であり元首相安倍晋三の2014年軍事法制論議からおかしくなっていったのではなかったか。

 このことを踏まえなければ、ウクライナ戦争を語れない。日本は、語ってはいけない立場であったのだ。


 ロシアの侵攻(侵略)によって生じている様々に情報を目にしながら、僕の想像は暗い方に向いてしまう。日常生活を破壊され、別れ別れの生活を余儀なくされている人々の姿、無残な死に追いやられた人々の事、どのように復興が考えられるのか想像もできない破壊された街の光景などは、気持ちを沈んだものにしてしまうだけである。この理不尽で野蛮な光景の中で、救いはロシア軍に立ち向かい抵抗するウクライナの人々の姿であり、死の恐怖を抱えて闘う人々の姿である。そこに一つの希望を見出しているが、それとて、廃墟の中のダイヤモンドのごときものである。本当は目にしたくないというか、痛々しさの伴うものだ。電撃的な進撃によって、キーウを制圧し、傀儡政権を樹立するというプーチンのシナリオを打ち砕いたウクライナの人々の抵抗というか、闘いは感動的なものである。この戦争をプーチン(ロシア)の敗退(敗北)として前進的に解決していく方向を切り開いているものだ。暴力と力によって隷属を要求する行為に立ち向かう人間の尊厳をかけたこの抵抗に僕は感銘を受ける。本当は、外から「感銘を受ける」などといってはいけないような、さまざまのことを含み持ったものであろうが、僕はそれでもそこに畏敬の念を持つ。これはプーチンの非人間的な蛮行(権力の所業)に対する怒りの対極にあるものだ。ただ、これはロシアのウクライナ侵略によってやむなく出てきたものであり、本当は、なくてもよいものだし、悲劇を内包したこのような抵抗は、なければないでいいことだ。そんな思いはついて回る。
 ウクライナ戦争への三上翁の思いが滲み出ている。毎日、毎日ウクライナ戦争のニュースが、目の前に情報として流れれば、流れるほど、頭の中は、ウクライナ戦争で一杯となろう。

 例えば、これが、支配層政権与党側は、中国を刺激しないように、ウイグル、チベット自治区などの虐殺行為に対しては、まるでオブラートに包んだかのように、日本国内では、あまりニュースにならない。本当に、米国との距離が近しいならば、米国とともに強く日本政府は、糾弾せねばならんのに、この虐殺問題は、大きな世論形成にはならない。連日のように中国の虐殺行為ニュースが、国内で流されれば、現在のウクライナ戦争のような憎悪を生むはずである。何が言いたいのかと言えば、支配層政権与党のために、都合の良いニュースが流され続け、日本をあらぬ方向へと導いているということである。

 であるからこそ、三上翁のこのような感情が顕れるのであり、そういう意味では、支配層政権与党戦争誘導は功を奏していると云える。

 問題は、これを奏功と言って良いものかどうかだが、三上翁の文言にも同じ様な感情的意味合いで並ぶのである。

 三上治翁に対するこのウクライナ戦争メディア誘導。客観的なものの見方が、出来づらくなり、主観的(戦争主観は、敵、味方双方に「正義」があると思い込ませるほど危険なものである)に変わるほどの戦争メディア誘導である。感動的、感銘、畏敬の念という言葉があらゆる戦争において相応しいかと言えば、残念ながらそれはない。

 しかし、三上翁が、敢えて用いざるを得ないほど追い込まれていることは、想像できるのである。
 
 このことは、僕に「なぜ、プーチンはこうした蛮行をしたのか」という問いかけに生む。プーチンは誰からみても、いかなる口実を設けようとも、言い訳の不可能な侵略という行為を「特別作戦」ということで、ごまかす。大義なき戦争であることは誰の目にも明らかだ。だからこそ、「特別作戦」という言葉でごまかそうとする。

 軍事独裁者安倍晋三の過去の暴走政権を見ても「積極的平和主義」、「平和安全法制整備法」など、どこの国も言葉でごまかそうとする。あの2015年安保闘争は、戦争主義者による戦争支援法反対の戦いだったのである。

 

 日本が中国大陸での戦争を「事変」として胡麻化したことを想起する。ヒットラーの侵略を、プーチンが今、真似ているのだと思う。ただ、今回のプーチンの「ウクライナ侵略」という行為は、その理由というか、動機の見えにくい行為である。この理由はプーチンの今度のウクライナ侵攻(侵略)は、時代ものというか、「一時代前の戦争」というところがある。誰かが「19世紀の戦争」と言っていたが、そういう様相がある。「現代では国際法も含めて、禁じられている戦争だ」ということがある。だから「人々の常識に反する戦争だ」という側面があり、「戦争の理由や動機が見えにくい」と人々が思うところがある。これはプーチンの国家戦略が公開されずに秘されてきたことも大きいが、彼の政治観や戦争観が古典的なものだということに起因することもある。この点、プーチンの国家戦略がいくらか明らかになってきた今では、幾分かは明瞭になってきたといえる。

  僕は、この戦争は「NATO拡大などでロシアの安全保障が脅かされる」というよりは、「プーチンのロシア国家の統治に危機が生まれ、それを乗りきるために戦争という賭けにでた」ということを推察した。「NATOの拡大がロシアの安全保障を脅かす」という理由、「ロシアを軍事的脅威にさらす」というのはもっともらしく聞こえる。だが、少し分け入って検討すれば、NATOが、かつてワルシャワ条約を形成していた諸国(社会主義共同体を構成した国。あるいはソ連圏と呼ばれた国)の紛争に軍事介入したわけではなかった。ソ連圏やソ連邦の解体はNATOやアメリカの軍事介入で起こったことではなかった。だから、この「安全保障の危機」というのは、現実性を感じさせないものだ。


 問題は、露国家元首が、猜疑心、恐怖心、被害妄想を持ってしまったことである。その解決方法は、米国との話し合いだけである。しかし、時の合衆国大統領は、積極的に介入(無論、武力ではない)して軍事侵攻を止めるということではなかった。露大統領は、明日侵攻すると合衆国大統領に電話連絡していたはずである。調べてみたまえ。CIAに拘束されるやもしれんがね。露大統領と世界は、裏で密接に繋がっている。ドイツのメルケル元首相も、ほんの数年前、首相時に、何かを知ったらしい。知って体調を崩された。何かが計画的に動いているようであるのだ。ウクライナ大統領が、2019年に現れた意味。なぜ、役者上がりなのか。謎は、謎を呼ぶだろうが、悉くこのブログでは、明らかにしていこう。

 いずれにせよ、アメリカ合衆国は、この戦争について、事の成り行きから、今までのことを全部知っている。この戦争を止めるのはアメリカ合衆国である。

 そして、止めるのは、暴言王トランプ前大統領である。トランプ元大統領が、大統領に復帰する道は、開かれているが険しい。大統領にならなかった時の方が恐ろしい未来が待っているやもしれん。アメリカ合衆国の動きは、余程、関心がなければ、自国が危機に立たされよう。既に、安倍晋三の靖国参拝で、米国大統領を激怒させているのだ。

多難な道は、今後も続きそうだが、今のままでは、解決が遠のこう。日本の軍拡は、危険な仮想敵国への挑発と看做される可能性が高い。日本は、全世界に見られている。そして、日本の動向こそが、平和維持か、戦争かを決めているような一面があるのだ。

  旧社会主義共同体を形成した国がNATOに加入していくのは、旧ソ連邦、現在ではロシアに対する軍事的脅威を感じていたためである。今回のロシアの行為は、それを示したように思う。アメリカの軍事的脅威論は、ソ連時代から常套手段であるにすぎない。プーチンはそれらの国がロシアとの戦争を避けざるを得ないことを歴史的に知っていて(NATOやアメリカが参戦してこないことを熟知していて)、ウクライナ侵略をやったのである。制裁は予想外のことであったかもしれないにしても。プーチンが政権についたのは2000年の初めであり、それから20年以上が過ぎ、彼は2024年の選挙を控え、終身大統領制を目指している。彼はイデオロギー的には保守主義を名乗り、その政治を民主的独裁と称しているが、スターリン政治と類似したことをやっている。スターリン体制下の秘密警察を再編し、政敵の毒殺や暗殺という恐怖支配、メディアの統制と脅かし、選挙の不正などの内政と、強国と大国を目指す外政があり、それは、スターリンとは名目は違うが、同型の独裁国家を作っているのである。
 日本も2015年前後に同じ様な過激なメディア統制があった。自民党元総務大臣の高市早苗は、電波停止発言にまで及んだのである。軍事独裁者安倍晋三の取り巻きは、「反対論者は、粛清せよ」の恐怖政治だ。粛清は、TVメディアの論客、評論家、元アナウンサー、芸能界にまで及ぶ。この時代の有名人の怪奇な死亡ニュース。

 或者は、心臓発作の突然死、或者は、突然のがん発症死、或者は、腹痛を訴えただけにもかかわらず、明くる日には死亡。陰謀説としては、竹内みどり氏、テントひろばのご高齢の参加者の急逝も何かしら関係している可能性はある。安倍晋三への支配層側の忖度は並大抵ではない。今でもキングメーカーなどと言われて持て囃されているのではなかったか?

 現在の首相も逆らえないようで、積極的に意見を求めている。地獄の使いの意見は、地獄に国民を導くことである。小生は、ことあるごとに安倍晋三の名前を出し(この物言いでは、殆ど毎回)、徹底糾弾しているが、日本を戦争へ導く諸悪の根元であるからこそ、こうして申し上げているのだ。


  ロシア帝国の復活がその方向性となっている。


日本は、大日本帝国の復活が、日本会議の方向性であり、「神の国」にするのが、安倍晋三と地獄の側の支配層以下の思惑である。


 チエチエン戦争がナショナリズムを喚起させ、プーチン政治の支持を高めたように、戦争は独裁的な国家統治を強める役割を果たした。

 確かに、安倍晋三の登場によって、独裁傾向が顕著になった日本。ロシアは、米国と同様戦争をする国であり、日本は、戦争をしたくても出来ない国の違いだけである。


 戦争を繰り返して国家統治(独裁型の国家統治)を強めてきた明治以降の日本と似ていなくはない。

まさに類似している。


こうした彼の政治が抱えている危機こそが、今度の戦争の動機をなすものであり、それこそが秘されてきた戦争の理由だと思う。これは両刃の刃(剣?)のようなものであるが、事態はそれを表すように進んでいる。戦争は始めた瞬間は、権力者の支持を高める。その批判がその国家内部から出てくるのは、ある程度の時間の経過を必要とする。ロシアの内部のプーチン批判は、その意味では異例の速さで進んでいるが、プーチン政治の終わりのはじまりであることは明瞭だと思う。

 露大統領は、大統領を続けないと吐露したことがあった。その発言がどのような情勢の元で発信されたのかは、不明である。

 本当に有終の美を飾るためだけに、このウクライナ戦争を始めたのか。そういう思いが見え隠れしている様な気がしている。確かに終わりのはじまりなのだ。

 戦争に、美も何もないがね。

  ロシアの軍隊が演じた民間人の虐殺ということが発覚し、ロシアの戦争犯罪行為が衝撃となっている。僕は、旧ソ連軍が第二次世界大戦末期に満州で行ったと言われる行為を想起した。ここでのソ連軍の蛮行は多くに人に知られており、語られもしてきた。しかし戦後はソ連が戦勝国であったため、そうした蛮行や非行は隠されてきた。それはファシズム国の戦争を暴き、それを裁くことが急であったためである。これはアメリカの戦争についてもいえる。東京裁判が戦勝国の戦争犯罪、犯罪的行為を裁かないという点での批判を僕はしてきた。ただ、右翼や保守派の東京裁判批判とは日本の戦争の擁護という点で違っていた。彼らの東京裁判批判の眼目は、日本などの敗戦国の擁護にあったが、僕は戦勝国の戦争犯罪の裁きを欠落させていることを批判してきた。

 戦争犯罪を問えるのは、戦勝国である。虐殺というなら、過去には関東大震災発生時に、日本臣民による朝鮮人大虐殺があり、中国の南京大虐殺も、記録がないといっているようだが、あったから、語り継がれるのであろう。歴史を紐解けばどこの国も同じ様なことをしている。要するにこのような悲劇は、戦争や破壊という行為を未然に防ぐことでしか、解決できない。朝鮮人大虐殺も荒廃する東京て実行された。現在、震度7に耐えうる建物が次々に建設され、ある程度、地震による破壊を遁れるかもしれない。異人虐殺の可能性は、極めて低くなったのではないか。

 いずれにせよ、三上翁のこの部分については、右左翼の主張を端的明瞭、明確に表している。歴史修正主義者でもある安倍晋三。この議論からも解るように、日本の戦後保守タカ派論者の論理展開がなされていたのだ。


  こういう事情が旧ソ連軍の戦争犯罪を暴かないで来たが、それを多くの人は知っていたのだと思う。それに戦後の左翼は旧ソ連や中国を支持し、ソ連の戦争は正義の戦争であるとしてきたから、こうした旧ソ連軍の犯罪的行為は不問に付してきた。この問題をきちんと総括しないで来たことが、今、ロシア側の「あれは捏造だ」というプロパガンダを信じる部分を生んでいるようにも思う。そこには戦後の左翼が旧ソ連の戦争は正義の戦争としてその蛮行は不問に付してきた伝統が無意識も含めて残っているように思う。
 意外な左翼批判であるが、的を得ていようと思う。内部を知るからこそ批判できるのだろう。

 ただし、勝者側に立つから、後付の論理としての正義というわけだが、敗戦国日本も、戦争当時、正義はあったのである。なぜ、こんなことになってしまったのだろうと分析したのは、終戦間際、武将楠木正成(くすのきまさしげ)が、末端の兵士までその名が伝達されたときだっただろう。謗法の鎌倉幕府滅亡に、一役買った勇将楠木正成。戦勝して、鎌倉幕府は、亡んだのである。

 
  ロシア軍が演じた戦争という犯罪行為に対して「それは捏造だ」という反論がロシア側から出されている。これは民間施設などの攻撃についても。戦争下では正確な情報が出されないことは誰もが知っている。情報戦といわれる現在の戦争については特にそうである。僕らはそれをどのように判断すればいいのか。正確な情報ではなく、嘘の情報発信を当然のことにしているかぎり、それは戦争がいかがわしいものであることを示しているのだが、僕らは、どうすればいいのか。結局、これは、情報を受け取る側の判断に委ねられるのである。そこで、僕は、二つの基準を考える。自分が情報を読むときの基準である。
 日本のメディア誘導も極めて感情的に巧みである。

心を掴んで離さないことをする。平和時ならば、許せることもあろうが、現在世界の置かれた情勢は、有事である。日本の有事は、2015年前後に既に始まっていた。弾が飛んで被害が出ていないだけで、既に始まっていたのだ。これも軍事独裁者安倍晋三のためにである。自ら危機を齎さんとすることをよしとする考え方の持ち主。彼のために、日本は、第三次世界大戦へと導かれてしまう。それを何としても全日本国民が、止めにかからねばならんのだ。情報操作は、安倍晋三自らが暴いている。情報操作というよりも「印象操作だ」というのである。この辺りに、支配層の国家統治力を求めているのやも知れん。


  基準の一つは、情報を発する人の社会や国家が情報の自由がある社会か、どうかである。例えば、「プーチンは嘘つきである」という情報がある。「信用できない」という。他方で「それはデマである」という情報がある。その場合にどちらの情報を信じるかという時の基準は、情報を発する人の社会や国家が情報の自由がある社会か、どうかである。「表現の自由」と言ってもいい。


 日本は、安倍晋三首相登場以来、世界の報道の自由度ランキングが、低迷した経緯がある。安倍晋三によって、表現の自由が侵されたのである。共謀罪法案論議のころだったか、これについては、過去に三上翁も安倍暴走政権を糾弾したときに、述べていることである。


 これは相対的なことだが、一つの基準になる。言論統制や表現の統制の厳しい国とそうでない国との差異はある。例えば、今回の「ロシア軍の虐殺」ということに、ロシア側とウクライナ側から正反対の情報がだされる。僕は、ロシア側の情報を疑わしきものとみる。これは、今回の侵略という行為を「ロシアに非がある」と見ているためではない。それは「ロシアは、情報の自由が許されずに統制下にある社会だから」である。これはコロナ感染の発生した中国の情報を信じるか、どうかと言った時も考えたことだ。中国の情報を僕があまり信用していないことには中国における言論統制や自由の抑圧がある。

 確かに、ロシアの言論統制は甚だしいものがあると思う。西側諸国に倣うための旧ソ連解体である。失政となってソ連共産党が、幅を利かせることは何としても阻止したい。故に言論統制は、きつく、頑なとなるのであろう。

 日本もまた、王国ゆえに、共産党とは一線を画さなければならないと思っている。ゆえに、政権交代した場合、政権与党に共産党はなるのか、ならないのかという議論がなされたりする。日本の保守層は、共産党に革命でもされたら大変なのである。

 ゆえに、天皇陛下の御前で起立を求めても立ち上がらない共産党を言論で徹底糾弾したこともあったのである。

 いずれにせよ、ロシアの守るものは、資本主義体制下の西側諸国の考え方である。そう仕向けたのはアメリカ合衆国であり、見事なる体制崩壊で、世界が一つになった。しかしながら、緩衝国の敵対的進出と疑ってやまないロシアは、現在、猜疑心、恐怖心、被害妄想で一杯であろう。体制を守るための言論統制が、戦争言論統制へと変貌する。

 2015年前後の安倍晋三暴走政権を見れば重なるところがあり、見えてこようものである。


  それに比すれば、ウクライナや西欧諸国には相対的にせよ情報の自由とか、表現の自由がある。この差異は重要なことだ。情報を信じる基準になる。現在の自由度は相対的なものだが、人類の歩みがこの獲得のために歩んできた歴史を考えると、この差異は大変な重みのあることがわかる。それは多くの人がどの情報を信じるかというときに一つの基準として選んでいることでもあると思う。これはコモンセンスでもある。
  僕らが、表現の自由や情報の自由が重んじられ、文化風土としてあることの重要さを考えることも、かかわっている。情報を統制し、情報を制限する度合いの強い独裁国家の情報に信用を置かないのは、そのためである。

安倍晋三暴走政権時代のことも指す。


僕は情報化社会の中で、情報を受け取る側の判断の基準として考えるのだが、これは大事ことだと思う。僕はロシア側のプロパガンダそのままとは言わないが、どこかの新聞だの、映画だの引用をして、あたかもこの戦争はウクライナ側に責任があるかのような言説を見るたびにうんざりする。情報を疑い、自分の頭で考えた形跡が全く見えないのだ。

  もう一つの基準は「歴史を読む」ことである。情報を読み、主体的に判断するには、歴史的な認識が必要である。その鍛錬というか努力が必要であると思っている。それが国家的プロパガンダに取り込まれることを免れることになると思う。半藤一利が指摘していたように「国家が戦争について本当のことを語らないことは、国家の属性である」というほど、根深いものである。半藤は、「日本国家は、日露戦争について戦史を遺した(3部ほど)が、それは公的に語られてきたものとは全く違っていた」と言う。「公的に流布されてきた戦史は偽造というべきものであった」と。そして、半藤は「この3部は、公には隠されていた。司馬遼太郎は、本当のこの戦史を読んではいなかった」と推察している。彼は「司馬遼太郎がこの戦史を読んでいたら『坂の上の雲』は違っていた」と推察するのだが、戦争についての国家的情報は、国家の都合のいいように、偽造して、脚色して流される。今回の虐殺情報を見ていても、僕らはそういう背景のあることを認識し、「眉に唾をして」かからなければならない。そのときの情報を読むには旧ソビエトやロシアの、あるいはアメリカやや西欧諸国の戦争の歴史について認識する努力が役立つのである。僕は半藤一利や保阪正康が日本の戦争についての歴史を探索することを強調しているのを知ってはいたが、僕はそのことが、今回のウクライナ侵攻についての情報を正確に読むことに役立った。そう言う意味では歴史の探索は偽造情報にごまかされないために重要だ。
 歴史を知らない、あるいは、忘れるから愚行を何度も繰り返すのである。時には、国際連盟が立ち上がり、二度と世界大戦はしないようにしようと世界が一致団結したところで、20年後には、第二次世界大戦が勃発である。その後、奇跡的な非戦の日本国憲法が世界に齎され、何と70年も世界大戦をせずに済んだのである。まさに奇跡だ。ロシアの今回の蛮行によって、人間は、実は、猿以下であることを証明した。それはそうだろう。日本国内においても、親殺し、子殺しである。獣もしない家族殺しを平気でするのである。

 しかも、獣の99%は、子育て放棄をしない。人間は、ときに猿以下となる。いや、猿以下ではなく、猿未満になるのだ。同種族の獣が互いを虐殺するなど、見たことがあろうか。

 今回のロシアの「ウクライナ侵攻についての評価がいろいろだ」ということが伝えられる。「多くの団体やグループで意見は分かれる」と伝えられる。僕のネットなどでもそうである。それと同じように様々に提言もある。僕がそこで何よりも感じているのは僕らが傍観者のような位置にあることだ。これは善悪の問題ではなく、世界の構造からやってくるのであり、ここは「自覚的である他ない」ということだ。この戦争においてどういう立場をとるにせよ、関りというのは難しいし、「僕らがこの戦争に関われるのは細い道としてのみ可能だ」ということだ。そこを踏み外せば、善意からであれ、悪意からであれ、途方もない提言などがでてくる。今回の戦争について言えば僕の立ち位置は明瞭である。それは「ウクライナ人々の抵抗を支持し、ロシアの侵略を批判する」ということであり、そのことは明瞭である。「ロシアの侵攻にも幾分かの利はある」とか、「ウクライナ側にも問題はある」とかの考えは、安易に言うべきではないと思う。これは結局のところ、ロシアの侵攻を容認すことになるからである。ここのところは、よくよく考えるべきである。

 ここにおいて三上翁の立場が明確になったのである。ただ、問題は、立場が明確になった時点で、敵を創るということである。これは、人間の闘争本能から来るものであることは否めない。現に1960年安保闘争で、デモ暴動活動に参加している三上翁である。あの記憶が甦っているのであろう。闘争心旺盛のあの頃にである。

 ただ、危険である。日本がその立場を明確にした場合、攻め込まれる可能性が出てくる。すると政府は何をせねばならんかというと軍拡に次ぐ軍拡である。

 抑止力よろしく軍拡に励まなければならんのだ。

人間の闘争心むき出しの原始時代がこの時代に甦る。以前から申し上げているが、日本が破滅的な軍拡をすれば、世界は滅ぶ。

 三上翁は、残念ながらその選択肢を選ばざるを得ないほど追い込まれてしまったのだ。


  ロシアの侵略に抵抗し、ロシアを敗北に追いやることで戦争をなくしていくことは、現在考えられる一番現実的なことであり、それは、現在の一つの希望でもある。そしてウクライナの人々を支援し、ロシアの敗北に追いやるためには世界は武器の提供も含めてあらゆる支援をすべきである。ここでの線引きは各国の参戦ということになるが、これはすべきではないと思う。これは戦争を国家間戦争に一般化してしまい、ロシアの侵略の言い分を認めてしまうことになるからである。そしてまた、この戦争を拡大してしまうからだ。ここを線引きとした支援はいかなる形でもいいのであると思う。

 残念ながら、それは無理がある。日本国政権与党は、既に戦争ありきの議論である。止めようがないのだ。

 しかるに、今一度申し上げて置くが、日本は、この戦争に一切関わってはならん。敵をつくるな、立場を弁(わきま)えろということなのである。

日本は戦争が出来ない国であり、戦争をすれば、第三次世界大戦である。

 何度も申し上げよう。日本のメディア誘導は巧みである。現在、国内は戦争誘導となっている。三上翁でさえ、屈しているのである(この戦争に積極的に関われという意味で)。

非常に、危険な時代に、あの愚かな軍事独裁者安倍晋三とともに突入してしまったのだ。


経済制裁は言うまでもないことだ。今回の「ロシアの敗北」という形は「ロシアの降伏」という形ではなく「停戦」という形になる公算が大きいと思うが、そこではウクライナ側に主体というか、ヘゲモニーがあることを明瞭にしておくべきだ。こういう原則を明瞭に持ちえない「停戦」の提起は、無意味であるばかりか、ロシア側の理を認めることになってしまいかねない。そこは注意のいることだ。

 僕は先のところで、「僕らがこの戦争に関われるのは細い道としてのみ可能だ」と言った。「またもや、傍観者のような位置を取らされる」と。これは、のロシアの侵略が国家的行為であり、この戦争と闘う道は、その対象になったウクライナの人々か、ロシアの人々しか直接的には持てない。他の国家の人々は国家行為という媒介を通してしか関われない。今回の侵略に対してウクライナ以外の国家が参戦することはやめるべきであり、参戦は否定されるべきだとすれば僕らの関りは「細い道」になる。この参戦については、アフガンやイラク侵攻時に日本の参戦が呼びかけられたこととは逆になるが、同じことである。

 この戦争を止められるのはアメリカ合衆国しかない。

どこかの時点で、大統領が連絡を取り合おう。それが、いつなのかは、わからない。

 遂に、生物化学兵器を使用したロシア軍の模様である。この戦争は、今までにない凄惨極まる戦争となってゆくのではなかったか。

 日本は、何もできない。自ら進んで墓穴を掘る意味がどこにあるのだというのか。


 僕はかつてベトナム戦争時に「義勇兵として関わりたい」と思った。これは、今、思えば、傍観者のような立場に置かれていることへのいら立ちがあり、僕なりに「実践的(現実的)に関りたい」と思ったからだった。しかし、これは「義勇兵としてでは関わり得ないのだ」との反省をもたらすことになった。ウクライナ侵略が始まって「もし若ければ、僕はウクライナの要望に応じて義勇兵に参加したかもしれない」と考えた。しかし、その場合は、国家の成員から離脱してのことである。「現実的にはこの戦争への関りは遠いのだし、少しも近くなることではない」と自覚してのことだ。

 国民が、他国の紛争に身を捧げるということの意味は、報復を伴うということである。故に、国家の構成員から離脱しなければならない。無国籍者にならなければ、祖国に迷惑をかける兵隊になってしまうとうことである。

 戦争という人類の闘争心を掻き立てる事象への憧れ。「ウクライナを自分が救うのだ」という正義感。これは、人間ならば、誰しもが持ち合わせていることである。

 しかしながら、戦争に、正義の見方はない。どちらか一方に正義があれば、一方の正義は否定されてしまうのである。

 今回、三上翁は、そのことを明確に宣言してしまった。勝負にでたのである。そして、勝者側に立って優越感に浸ることも将来的にできるかもしれぬ。

 しかしながら、その優越感は、日本の破滅的な軍拡を伴うのである。いまさらながら、後の祭りである。

今世紀中頃が、人類終了の可能性がある。

人類は、獣未満の思考性を持ち合わせた存在であることがこの戦争で理解できた。

 この世が終了して、喜ぶはいったい誰なのであろうか。


  僕らは国家を媒介にして関わるしかないのだし、さしあたって日本が国家として参戦することを否定しているのであれば、そして、それに賛成ならこの参加は精神的支援にしかならないと思っている。僕らがこの戦争に現実的(実践的)に関係できるのは「細い道」でしかない。ベトナム反戦闘争が曖昧あったのは、国家にどのような対応を取るべきかの現実的方向を提起するのが難しかったからである。「アメリカのベトナム戦争に対して、日本の国家が同調して参戦することを拒む」というのが、僕らの提起できることだった。その意味では、日本がアメリカに同調してベトナム戦争に参戦することを拒否することは実現したが、日本の国家は参戦する、そのように国家を変えていくのかどうかは当時の国家権力の方向としては不明だった。当時の首相は安倍晋三に叔父にあたる佐藤栄作だったが、彼は心のどこかで参戦を望んでいたのかもしれないが、日本の国家を戦争のできるように変えていく方向を志向しているのか、どうか不明だった。

 ベトナム戦争に日本が、参戦していたならば、その後どのようなことが起こるのかを想像してみればよい。

 人命を奪い合うために、その憎悪は、大宇宙に共鳴してしまおう。恐らく1999年をもって人類終了となっていたのではないか。ベトナム戦争参戦で、とっくに日本には、抑止力よろしく核兵器配備である。

 いつ終了してもおかしくはない状況だ。しかもあの戦争は、超大国アメリカが屈した戦争だったのだ。日本もその負けをまた味わうのである。卑屈になってあまりあろう。


だから僕らはベトナム反戦闘争を日本国家権力の動きとの闘争に発展させられなかった。国家の動きが見えなかった。当時の国家権力の担当者である保守の面々は政治的に巧妙だったのか、方向性で迷っていたのか、戦争についての道は隠していた。だから、僕らは国家のどの動きとの対決にベトナム反戦闘争を持っていくのか明確にできなかった。日本のベトナム参戦阻止までは明瞭であったが、それ以降は目標を持てなかった。それが、ベトナム反戦闘争が広がりと盛り上がりがあった割には発展性を欠いた理由だった。


  ロシアのウクライナ侵略に反対し、ウクライナの人々の抵抗闘争を明確に支持することは、日本国家がウクライナ側に立って参戦することではない。支援は、参戦との間で線引きすべきである。こうした中でのウクライナの人々の連帯は何処にあるのか。ウクライナ人たちの闘いに関われる道はどこか。



それは日本の戦争をできる体制構築の動きに反対することである。ということは、日本がウクライナの抵抗と同じようなことができるように国家の軍備強化をせよということではない。逆である。日本がロシアのような国家にならないということである。日本の軍備強化とは、自衛のための軍備強化を名目にしてロシア的な軍事大国になることだからである。

 これが止められそうもないから、一切関わるなと申し上げているのだ。この部分の論議は、気づきを与えられている。


国家権力側は、日本が戦争をできる国家体制に、この動きを誘導しようとする。このための機会にしようとする。これは、日本がロシアのような戦争国家になることだ。自衛という名目でロシアのような戦争国家にしていく動きと言える。「核所有」や憲法改正などのことと言える。これを拒むこと。迂回路のような道だが、日本を戦争させない国家にすることが、ウクライナの人々に連帯しロシアの侵攻に反対する道なのだ。

 人類は、獣未満である。そのことが、今回明らかになったため、この議論は、あまりにも空虚とならざるを得ん。本当に悲しいことである。


  ここでは、「今度のロシアの侵攻がなぜ生じたか、戦争とはどうして起こるのか、その共通の認識を広めることがまず重要だ。それを根底にした反戦運動が必要なのだ」と思う。プーチンの意思で始められた戦争を見て、僕は憲法の前文をすぐに想起した。憲法の前文は権力者の恣意で戦争が行われることを否定している。このことをすぐに思い浮かぶ。憲法を改正し、プーチンの支配するような国家にすることは、プーチンの支配を拒んでいるウクライナの人たちに連帯することではない。僕はウクライナ人々の抵抗をロシアの侵攻に対する抵抗としてみるのだが、その中には非戦、こんな戦争をやらせないということを含んでいると見ている。これは自然発生的な意識かもしれないが、「奴隷になることを拒む、自由を守る」という言葉には、人々の「暴力的隷属を求める戦争を拒む」という意識もあるように想像できる。ウクライナ人たちの抵抗はロシアの侵略に対する自然な抵抗として生まれたのかもしれないが、それはそこにロシアのような戦争をなくしたいという思いがあるように思う。それはプーチンの戦争に反対するロシアの人々への期待と連帯でもあるだろうが、それは世界に各国の人々に自国での戦争体制に批判的になることの要請が含まれてのいるとみていいと思う。ロシアという軍事大国のウクライナ侵略は、弱者への暴力的蹂躙だが、ウクライナ人たちの抵抗は「他の軍事大国は同じことをするな」というメッセージを発しているのだと思う。だから中国はウクライナの人たちの抵抗を恐れ、プーチンを支えようとしている。このウクライナ人たちのメッセージは「日本を軍事大国にするな」ということでもある。そうであれば日本を戦争のできる国、また軍事大国にしないことが、それに関わり連帯する道だ。


僕は、ウクライナ人たちの抵抗を「日本の軍事強化の動きを拒め」というメッセージとして読む。つまりは非戦のメッセージとして受け取ら取らなければいけないと思う。それを人は「希望的観測」というかもしれないが、そうならそれでもいいと思っている。 (三上治)


 残念ながら自己矛盾を内包してしまう結果となってしまったようである。

 戦争は、国家同士の問題解決手段としては、最低、最悪の行為である。これをしないようにするために、日本国憲法があるのだ。断言できよう。だからこそ戦争には関われんのである。世界の希望の光を日本は持っている。これを、踏み躙ろうとする愚かな軍事独裁者(安倍晋三の様な)が現れるから問題だと申し上げているのだ。

太字は、小生