【マックイーン モードの反逆児】
デヴィッド・ボウイやレディー・ガガをファンを持つファッションデザイナーであり、ビョークのMV監督なども務めた時代の寵児でありながら、(憶測の域は出ませんが)母親の死を受け入れられなかったのか40歳というあまりの若さで2010年に自らその幕を閉じてしまった、アレキサンダー・マックイーンの激しく燃えた生涯を綴ったドキュメンタリー作品。
監督はイアン・ボノート、脚本には『オネーギンの恋文』のピーター・エテッドギー。音楽は彼の友人でもあったマイケル・ナイマンが担当。
この作品はドキュメンタリーであり、リー・アレキサンダー・マックイーンが既に亡くなっていること、映画の記録として控えておかなければならないと感じることから、ネタバレ、というよりは備忘録としての本来のこのブログの目的によるところもあって、特に今回は映画の内容を記憶の限り記録したものとなり、いろんなキーワードが散乱し感想の体は成していません。
※注 私にとってはその情報量が多過ぎたのもあり、思いっきりシンプルに書くにはあまりに勿体無いと思い、書きとめたプロットの羅列になっています。そしてまたこの備忘録は未完成であり、見ても何のことかよく分からないとは思いますが、それでもネタバレにつながるものは何も見たくないという方はここから先を読まないようにして下さい。
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物語は実際に記録されていた映像を軸に、マイケル・ナイマンの美しく情熱的な音楽を纏わせ、5章に分けて構成されていた。
・テープ① 獲物を狙う 切り裂きジャック
イーストエンド出身、会社員の父を持つ労働階級の彼がデザイナーを志すには、まずはロンドン中心部メイフェアにある高級紳士服店が軒を連ねるサヴィル・ロウ エリアにて修行することだった。彼がデザイナーを志す事になったきっかけは、たまたま近所の仕立て屋で縫い子が足らないと聞いて手伝ったのが始まりだった。
彼は『アンダーソン&シェパード』や『コウジ・タツノ』などで縫い子から修行を始め、その類まれなる熱い情熱をもってメキメキとその腕を上げ、お金を貯めては自身の作品作りを繰り返した。当時彼が好んだモチーフは連続殺人事件の『切り裂きジャック』、音楽ではシニード・オコナー(The Emperpr's New Crothesなどの曲を持つ)を好んだという。泣け無しのお金を手に旅したイタリアでは、『働く場所を見つけてくる』なんて言って出立。周囲の人間はまるで本気にしていなかったが、飛び入りで頼んだ『ロメオ・ジリ』でまさかの助手の職を得ることになる。彼の美学、それは
『 何よりも情熱を持つ事が秘訣 』
『 情報というフィルターを通さない 』
帰国後、自らの製作物を見せて直談判する事で評価され、特例で名門セント・マーチンズ美術大学に入学。叔母に入学金を無心した上で後を絶っての入門であった。
ここで彼はメキメキとその才能を開花。そこでの卒業制作コレクションをたまたま見に来たヴォーグの編集者でもあったブルジョワ、イザベラ・ブロウ との出会いが彼の一生を決める事になる。
彼女はマックイーンとは正反対の貴族階級出身、大金持ちのパトロンであったが、生涯の親友でもあった。
この時のコレクションのテーマは 『 美とバイオレンス 』 イザベラは天才の発現だと直感し、この学校は
『 一体何者を解き放ったのか 』 と衝撃を受けたという。 彼女はその後、彼のコレクションを、金欠に苦しむ彼からわずか350ドルで譲り受けた。その服を纏ったイザベラ・ブロウがBBCクローズショーに出演、マックイーンの名はイギリス全土に知れ渡る事になる。
・テープ② ハイランド・レイプ
現実に耳を塞ぎ、世界は温かいと日和っている人々に現実を見せ付けたいと燃える彼の元に彼に共感し、惹きつけられた仲間が集結。McQUEENでは常に金欠の彼の下で働いていた人々が無給で働きながらさらに事業資金を支払っていたという驚きの事実。『 天才の中の天才 』所以のエピソードでもあろう。
『 観客が何も感じなければ僕の仕事は失敗 』
『 最悪か最高であれば良い 』
『 コンコルドでシャロン・ストーンへ衣装を届けた事もある 』
そこにはロンドンのサヴィル・ロウ。お洒落なストリートファッションのエリア、ブリックレーンからのインスピレーションが影響していた。
スコットランドのハイランドに根強いジャコバイト派、これにはヴィヴィアン・ウエストウッドも名を連ねていた。
この頃、彼のコレクションに映画音楽でも高名なマイケル・ナイマンが音響協力で加わる。
『 過集中 』
『 恋をするように服を作る 』
ジョディ・キッドとの出会い
彼が初のコレクション、ハイランド・レイプ にて表現した 『傷ついた女性、襲われた後のような姿、歩き方を模した女性などの様子』 は、公開当初非常に大きなバッシングを受け、社会現象にまで発展しかけたものの、マックイーン本人の『これは決して女性蔑視とかレイプ助長をするというような類のものでは無く、女性が虐げられてきた歴史や、自分自身が受けてきた虐待、家族の受けていたDVなどからインスピレーションを得たものだ』 という釈明を受け沈静化。この時彼は幼い頃に兄に受けていた虐待や、当時見ていた親から姉へのDVの記憶をカミングアウトする。
自然史博物館で行われた彼の衝撃的なコレクションは、McQUEENブランド初めてのものであったにも関わらず、そのショッキングな内容から大騒ぎとなり賛否両論を巻き起こすも、結果的にその作品が1200万人の目に届いたことによって彼は時代の寵児となっていった。
現在ならばその内容はデザイナーの意図がどうあれ一発アウトといったところですが。
・テープ③ そこはジャングルだ
ファッションモーメント 1995年
パリの エコール・デ・ボザール でも学ぶ
自身のブランドと並行し、彼はジョン・ガリアーノの後任としてジバンシィを引き継いだ(クリエイティブディレクターに就任)。これは彼にとって本意のものではなかったが、McQUEENブランドの経営維持の為に仕方なく受け入れたものであった。
当時の恋人はマレー・アーサー、
彼がパリのジバンシィハウスに集めた最高のチームには、
同僚セバスチャン・ポンス(いじられ役)
サイモン(コレクションのストーリー担当)
ケイティ・イングランド(スタイリスト)
ミラ・チャイ・ハイド(ヘアメイク)
ショーン・リーン(ジュエリー担当)など、彼を慕う精鋭が名を連ねた。
ただ、イザベラはパトロンだったが、ジバンシィのチームリストからは外された。『彼はイザベラに見出され、拾われた』とする一部の偏見が彼には我慢ならなかったのだ。
向かいには前任のデザイナージョン・ガリアーノの店舗があった
『 閃くのは最後の最後、神から降りてくる 』
若干27歳のデザイナー起用にそこに働く人々は驚いたが、すぐにそれは尊敬に変わった
ファッションハウスにおいて、デザイナーは王様に等しかったが、彼は地下の食堂で縫い子たちと共に食事を取ったりもした。『 あらゆる既成概念を打ち壊す 』
ジバンシィでの初コレクションに向け、彼らは25日間で55着の服を仕上げた。
彼がジバンシィに持ったイメージは白と金。 彼なりに表現した初めてのショーは酷評される事となる。
世間が抱いていた彼の破天荒な印象とあまりにかけ離れていた事によると思われる。
・テープ④ ヴォス
デザイナー生命は儚い
いくら彼がディレクターを務めるとは言え、厳粛なジバンシィの足枷は重く、定期的に自身のブランドの為にロンドンに戻った彼のコレクションはクレイジー、本来のマックイーンを束の間取り戻していた。
ただ、2つのブランドを掛け持つあまりに多忙な日々の苦しみは彼をドラッグの道へと誘ってしまう。
その創造性の高まりとは反対にその交友関係は次第に軋み始める。1年に14本もコレクションを続けていると頭がおかしくなる。
彼は20代の若者が受けるには重たすぎるそのプレッシャーに耐えられなかったのだ。
自然に手を出すようになったコカインへの依存
自分自身を変えられなかった彼の内面の弱さ
内に秘めた闇
この頃のLVMHのお気に入りはディオールのジョン・ガリアーノ
2001年のコレクション『ヴォスVOSS』で彼の名声はさらに高まる。
No.13のコレクションが彼の頂点。
『 リーは夢に生きていた 』
コレクションの素晴らしさは最先端の 『生々しい美』が体感できるところ
この頃グッチとサンローランのトップデザイナー トム・フォードに認められ、グッチグループがMcQUEENの株を50%買ってくれたおかげで資金的に楽になり、ジバンシィ → グッチへ移行する
心に少し余裕の出来た彼はロンドンに戻り、幼い頃の記憶にもある美しいサセックスの海を見、波の音を静かに聞くことで心の平安を取り戻した。
・テープ⑤プラトンのアトランティス島
同士イザベラとの絆
母親ジョイスへの愛
末期の卵巣がんと精神の病を患っていたイザベラの自死によるショック。
最後のショーは亡きイザベラ・ブロウに捧げたものであった。
ブロウの葬儀で彼はスコットランドの正装を着ていた。
マイケル・ナイマンの泣ける音楽。
そこから彼は 『豊穣のツノ』 に見られるような特異な作品を作り続け、ついに正気を失った
リーとマックイーンのミューズ、アナベラ・ニールソン(2018年 自死)の関係
自身がHIV陽性と判明
グッチに移籍後、一度は訪れた平安も束の間、McQUEENも含め年に14回のコレクションと目に余る過労働は彼をさらに追い込んでいった。
そんな限界状況の中で 『仕事というバブルには閉じ込められたくない』 と発した彼の痛切な叫びは、自殺を予告していたようなものであった
2010.2.10、母親の葬儀の前日に自死。
エンディングに流れる彼のコレクション映像には改めて息を飲み、そこに寄り添うマイケル・ナイマンの音楽には涙する。
逃れる事の出来ない死の宣告と、愛する人を一度に2人も亡くしてしまった、耐えようの無い孤独が彼を殺してしまった。あまりにも短すぎる彼の人生、これが天才ゆえの孤独と儚さなのか。。。
愛する者と共にサセックスの海をただ眺める。そんなゆったりとした時間を取れていたならば、彼は自ら命を絶つというような事はしなくてよかったのではないか。鑑賞後の大きな喪失感はただただ辛いものがありました。
B5サイズと少し小ぶりですが美しいデザインと充実の内容の劇場パンフレット、鑑賞した方には是非手に入れて欲しいです。