学校生活 43−2 コンプレックスからの立ち直り
続きでです
常に脳天に注意が向く生活。
それでもまだ若かったので周りの毛がふさふさしていたので
少しブラシで撫でると何とかつむじ周りを覆い隠す事が出来ました。
まだ、バーコードにはなっていませんでした。
でも風が吹くと!
青春ど真ん中で、こんな生活をずっと送ることになったのです。
でも元来、脳天気なというよりも鈍感な性格だったので、それでも気を取りなをして何とか大学は卒業しました。
本来なら工業高校から大学に、しかも国立大学に行かれただけでも幸運です。
何せ偏差値40台の高校ですから。
私は決して頭が良かったわけではありません。
自慢話ではないのです。
予備校に通う金銭的余裕はありません。
受験勉強はもっぱらラジオ講座。
家庭の事情で公・国立大学しか目指せませんでした。
工業高校は勉強しない生徒が多いのに数学は数学III。
学力が低いくせにフーリエ変換などをやらされていたので友達に数II Bの本をもらいました。
たまたま、殆どの人が勉強しない工業高校で普通に勉強していたら成績優秀者になってしまいました。
社会科の教員になりたくて学芸大学の事務に書類を提出したらなんと20倍。
とても無理でした。
文系と第二志望に技術科を書いたら、事務の人にダメだと指摘され更に、社会科はかなり難しいよと言われました。
本来なら事務の人がそんなこと言ってはダメですよね。
結果、私は社会科を諦めて技術科一本に変更しました。
定員10名の技術教育学科だったので電子科を出た私にはラッキーだったのでしょう。
そうそう、技術教育学科は学芸大学では中々マイナーな学科だったのです。
何とか滑り込むことに成功しました。
勿論、後日、事務のその人にお礼を言いに行ったのはいうまでもありません。
大学では電気専攻を選びました。
専門課程は殆ど工業高校の方がレベルが高かった気がします。
ただし勉強したらの話ですが。
こんな訳で大学は殆ど推薦入学の様なものだったと思います。
恐らく入試は点を取れていたとは思えません。
でも大学に入学してからが大変でした。
右も左もわからない私。
ガイダンスというのがどういう意味なのかわからずにダンス
は苦手なので、そのガイダンスの三日間は休んでしまいました。
指導教官という先生から電話をいただいてびっくり。
時すでに遅しで単位の取り方がわからず仕舞いで、その前期は何教科か赤点を喰らいました。
何とか大学を卒業して、その後の就職も何故かクリヤーしました。
実はこの偏差値40台の高校に言っていたから、有象無象が沢山いたこの高校のお陰でワルがたくさんいる公立中学に就職を許されたのでした。
校長先生から直々に電話を頂き、「君ならできる」と言われました。
どういう意味でしょうか。
どうやら偏差値40台が効いた様です。
私にとってこの学校、今は亡き横浜市立鶴見工業高校電子科はその後の人生にとても重要な存在でした。
✳︎現在ではとても偏差値の高い「横浜サイエンス・フロンティア高校」になりました。
この学校では人生の色々なことを学びました。
いずれまたそれは書きますね。
公立中学の出来事は前に書きました下記のブログを参照してください。
43−3に続きます