こんばんは。
今日は、世界的なロングセラーである「夜と霧」(新版)という本を読んでいます。
この本は、ユダヤ人の精神科医であるヴィクトール・E・フランクル先生が、ナチス強制収容所に収容された自身の体験を綴った本です。
人が人として扱われない、常に死と隣り合わせの極限状態で、フランクル先生ご自身と他の被収容者達、そして監督官など支配する側の人達が、それぞれどのように行動し(させられ)、心はどのように動いたのかが注意深く、生々しく描かれています。
私は安全な場所で客観的にこの本を読んでいるので、余計にそう感じるのかもしれませんが、本の文章からは、どんな状況においてもフランクル先生にはどこか冷静さが保たれていたのだなぁと感じました。
(いや、冷静さだけでなく、腹を決めた潔さもかな?)
なので、壮絶な内容が描かれていても、フランクル先生の冷静さにつられて(?)、私も冷静に読むことができました。
でも、もし私がその現場にいたとしたら、精神を通常の状態に保っていられるという自信はありません。
最後まで生きていられるかどうかも分かりません。
この本は、フランクル先生が解放されてから書いた初版を、30年後に改訂し、日本語に再度訳し直された本です。
(原書は、1947年に初版が出版、1977年に新版(「夜と霧 新版」の原書)が出版されている)
そのことが、壮絶な内容にもかかわらず、読みやすく感じさせる一因となっているのでしょうか。
おかげで、今夜、普通に眠ることができそうです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
この本の中から、印象に残ったところを一つ選んで引用します。
『強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。
そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。』
(『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル先生著、池田香代子さん訳(みすず書房/2002/P110-111)より引用)
自分自身が極限の栄養不足で骨と皮だけになっている状態で、しかも強制労働でへとへとに疲れている状態で、しかも勝手な真似をしているところを見つかると命さえ取られかねない状況の中で
それでも思いやりの心を保ち、人に譲ることのできる人もいるのですね。
そして、それが人間としての最後の自由。
私は、もしそこに身内や大切な人がいたら、身内や大切な人に対してだけはそうすると思いますが(自分が今、収容されていないから、そう言えるのかもしれないけれど)
誰に対してもそうできるかというと、正直できないと思います。
死ぬ覚悟がないとできない行為を、誰のためにでもできる人。
強さなのか、本当の愛なのか。
私はそれができる人の遠く足元にも及びません。
その人ができる理由を探している時点で、それは明白です。
死ぬ覚悟がないとできない行為を、誰のためにでもできる人。
その人は、きっと理由なんて考えていないですね。
ただ、やるだけ。
そんな気がします。
(辛そうな人に対して何もしないことこそが、その人にとっての最大の痛みなのかもしれない・・・)
今日も、ありがとうございます!
皆さまが、笑顔いっぱいでありますように!
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