先日、小学生のクラスで激しく叱りました。普段は、ほとんど叱らないので生徒の目は涙で潤んでいました。実は、以前叱った時に、授業を受けるときの内的な姿勢(心構え)についていくつか約束をしていました。一度注意して、本人との間で「今後は改める」と約束をした後は、こちらも本人の自主性を尊重して彼らを見守ることにしています。約束を守れず姿勢が崩れてきても、私は忍耐し、ただただ彼らを抱きかかえ、自分のやるべきことを手を抜かずにやります。ある期間、彼らが責任を果たしてくれることをひたすら待ち、誠を尽くします。彼らには彼らの責任があって、こちらは干渉できないのです。
私自身完全でなく、ある意味エゴの塊ですから、私自身に、限界を超えてひたすら誠を尽くした土台がなければ、彼らの魂に響きません。私の中で十分忍耐し、誠を尽くした基準が満ちた時、初めて容赦なく、命がけで叱ります。時には相手の魂が吹っ飛ぶくらい叱ることもあります。その後、長い説教が始まります。ですから彼らの心にかなり響きます。
ほとんどの子が涙を流し、自分の心の中からエゴを切り落とすことができます。そして、その時にしか語れないことをひたすら語ります。
それは…
「あなた方は、たくさん叱られなければなりません。叱られることによって、自分のエゴに気付き、切り落とすことが出来るのです。エゴがある分、その分だけ叱られてみて、魂を磨いていくのです。そして忘れてはならないことは、あなたには叱られるだけの器がある、ということです。」
時に叱られることによって、人の器は広がっていきます。相手の無限の可能性と、心の深いところにある「良心」の絶対性(絶対善)を信じてあげられるからこそ、命がけで叱れるのだと思います。エゴによって拘束されている「良心」を解放してあげなければなりません。
(岡本康裕)