一応子育て中の母として最近感じるのは
子供たちそれぞれの
《命》そのものを信頼してるということ
自分は自分の人生の主人公で
子どもたちや目の前の人も、その人の人生の主人公
誰もが唯一無二の主人公なわけで
目の前の人の言動や行動に違和感を感じたり
(これは自分の経験則からの違和感だから、自分の中の違和感。相手の行動や言動が悪いわけではなく、私のこれまでの価値観と相手が違うってこと)
いやいやこっちがいいよ!と相手を変えたくなる時
なぜそこを変えたくなるのか
自分に問う
なぜ相手の行動をそのまま見られないのか
止めたくなるのか、たしなめたくなるのか
自分にこそ問う
それはどんな信念や価値観から
その気持ちが湧き起こるのかを知るための
大切なお知らせだから
信念は自分だけのこだわりで
価値観なんてものは
時代や環境に簡単に左右されるもの
(平和な時は命の大切さを尊ぶのに、戦争中は人を○しても、よくやったと言われるとかね)
相手が自分より小さい子どもだったりすると
どうしても自分の方が
この世界の仕組みや社会をわかってる体で
相手をたしなめたくなるかもしれないけど
その子はその子の視点、視野で
その子の世界を体験してるので
(喜びも痛みも、失敗や成功と思えることも)
となりに自分がいたとしても
できることは本来サポートしかない
親だからとこちらの価値観に誘導するのでなく
相手の思いを聞いて聞いて
(どんな年齢でもその子の中には思いはある、その子にとってのその時点での答えがある、親の意に沿うかはわからないけど)
こんがらがった気持ちをゆっくりほぐして
自分の一番したいことは何だろうね?と
心の中のキラ星を見つけるサポートをしたり
葛藤やもやもやをどう整理し折り合いをつけるか
寄り添いサポートすることはできる
本人の出した答えがその子の答えだから
時にはやっぱりわからない、も答えだ
もし進みたい方向性が見えてきたら
その望みが叶うやり方を一緒に考えたり
こういう方法もあるよと違う視点をお知らせはできる
でもいろんな選択肢の中
最終決断は本人にしかできない
そしてその決断に正解はない
(本人にとってはどれも正解)
見てる大人からしたら不正解に思える決断をすることもあるかもしれないけど
人生って、そんなのダメだよ、不正解だよ!を選んだからこそ出会えてしまうとんでもないミラクルが用意されてたりもする
そして、そのミラクルの道への入り口を知ってるのは本人だけで
人生というブループリントには
そんな道が案外たくさん用意されてたりするのだ
(これ、自分で用意してきてる)
自分のミラクルを信じられるだけ
(自身のミラクルな体験が信頼になる)
この世界の仕組みを安心して受け取れるだけ
目の前の人の中にあるミラクルな道筋も信じられる
だから
自分は今この世界に寛げているか
何が起きてもうけたもう〜と
両手を広げられる自分であるか
そこをずっと精査しつづけるようにしている
目の前の人のことを変えたくなったり
間違ってる、なんて思う時こそ
なぜそう感じるのか
何を自分は怖くてそう思うのか
(これまで怖がって避けてきたのか)
知るチャンス
そうして自分の内側を明らかにしていくと
この世界がいかに無駄なくうつくしく整えられていて
ただ与えられていて
受け取るだけでいいことが見えてくる
自分の人生を
正解を選ばないと大変なことになる!と思ってたり
プラスの出来事だけがよくて
マイナスを避けたいと人生の舵取りしてると
目の前の人の人生もマイナスを避け
正解を選ばせたくなる
でも
そもそも正解の道はなくて
選んだ先での体験が変わるだけ
その体験は
はじめマイナスな出来事に思えた事が
後に最大のプラスに転じたりもする
子どもに『どうしたらいいと思う?』と
たまーに聞かれるけど
この条件なら私ならこうする
でもどれを選んでもあなたの人生は面白いと思うから
今の時点でこころが惹かれる選択をしたらいい
と答える
大抵の失敗と思える出来事は
お金が余分にかかったとか
時間や何かが無駄になった(ように)感じる出来事だから
そのお金や時間は子どもへの投資みたいなもの
この身体と命があれば
何度でも次の体験をすることができて
その失敗と思えることを次は活かせて反転できたら
やっぱり無駄な時間や体験はないわけで、、、
だから子どもに相談されても
その子の用意してきた魂のプランが
もう全く私の想像をはるか超えてるかもしれないから
その命に対して
とても外から口出しはできない
そんなの命に対しておこがましい!
とさえ最近感じる
だから何か方向づけることは
ほんとは一言も言いたくない
相談されたら、意見は言うし
こんがらがりを整理するのは大好きだけどね
わたしは目の前の人の『命』そのものを信頼してる
ほんとにそう思う
・
夏休みは暗闇の中ドラム缶風呂を楽しみました♡
おもしろかった