子供のころ、創作ダンスの発表会がイヤで、何かやむを得ない事情で中止にならないかな、と思っていたら自分がインフルエンザにかかって参加できなくなった。あの子苦手だなあ、もう少し話しやすいといいのに、と思っていたらその子が転校してしまった(当時の私にとって自分も経験した転校は、かなりかわいそうなことという意味付けでした)ということがありました。
 
思い出せるのはそれくらいなのですが、他にも思っていたことが、そういうことじゃない、そうなって欲しかったわけじゃない、という叶い方をしてしまうことが何度かあり、いつからかそれを「皮肉な叶い方」と名付けるようになりました。
この感じで願っていると皮肉な叶い方をしそうだな、というのがなんとなーくわかる時はその思考を止めてみたり、あとから皮肉な叶い方をしてしまったーーと嘆くこともありました。
 
神様は願ったそのままを返してくれているだけ・・・ですが、以前はバチが当たったような気持ちになっていました。
 
 
道場での学びを通して、それがどうして起こるのか理解できるようになってきました。
誰がそれを願っているのか、どんな動機でそう思っているのか、つまりは黒パターンの動機になっていないかな?ということを自分が振り返ることができます。
 
しかしそれは、黒パターンで願うと皮肉な叶い方をするからやめましょうね!ということではなく、気づいたときに新たなカードを選びかえればよいし、繊細に自分の黒パターンを観察しケアをしていくことを大切にして、それを通してより純粋に「祈る」ことができる自分になっていかれるのだと理解しています。
 
そのことがしみこんでくると、私が体験してきたことは、気づかせてもらっている、教えてもらっているのでもあり、もう、「皮肉な叶い方」なんて呼ばなくていいだろうと思うのでした。