ほかのだれかと自分、あるいは理想の自分と今の自分を比べる時、ひとつのはしご上で、あの人は自分より上にいるとか下にいるとか、理想の自分とはどのくらい離れているとか、そういう見方をしていると思います。
道場で学ぶ前の自分はそのことについてこう考察していました。
例えば、誰かが活躍して、あの人より自分は下だった、と思うとき、その差の分だけ今の自分を卑下してみていて、その卑下した段数分だけ、悔しさや悲しさ、自己嫌悪感といった感情がわいてくる。
しかし別のある日、その人より自分が評価されるような出来事があると、「なんだ、自分はあの人より上だったのか」と今までその人がいると思っていた段より数段上に自分がいると思い込んで、その段数分、舞い上がる。
でも、実際は今の自分のいるところが実力で、それに気づいたとき、舞い上がった段数分だけ、それは間違いだった落ち込む。
そんな感情のアップダウンがつらくて、はしごで誰かと比べ始めたら、それはやめよう。ということをしていました。
これはこれで、まあまあ頑張ったのではないかと思っているのですが、道場で学んだことでこれをとらえるとどうなるか、考えてみました。
とりあえず、そのはしごの上だ下だ、と言っているところの、はるか上からほんとうの「私」がその比較の中で揺れ動いている自分(比較のパターン)を見ています。
そして、誰かと比べて自分はだめだ、と言って悔しさや悲しさ、自己嫌悪感をわきあがらせているパターンに「私はいつもあなたのそばにいるよ」と声をかけてあげる。
そのはしごや自分や他人のいる段がどこかというのはパターンの世界であり、「私」から見れば「はしごって何?」という状態だと思うのです。そして、「私」はそのはしごを使って自分と誰かを比べることを選ばない、というあり方を選ぶ。
どちらも「はしごを使って比べること」をやめているから、やっていることは似ているようにみえます。
でも、大きく違うのは、わきあがる感情がつらいからやっているのではなくて、「私」が感情をわきあがらせているパターンに寄り添い、そしてパターンの景色と違うものを見て選んでいる、ということではないかと思います。
そう思うと、私の学んでいることって面白いな、とあらためて興味がわきました。
皆さんはどうでしょうか?
明日は今年最初の岩手クラスです。
なぜか少し緊張もし、そしてすごく久しぶりな感じもしていますが、楽しんで参加したいと思います。