呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 321 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

49.沢火革

□卦辞(彖辞)
革、己日乃孚。元亨利貞。悔亡。
○革は己(つちのと)の日乃ち孚(まこと)あり。元に亨る、貞しきに利し。悔亡ぶ。
 革は、上卦兌、下卦離。兌は沢、離は火。火が盛んに燃えれば水を乾かす。水が盛んに溢れれば火を消す。以上が火と水の性質である。お互い相反する関係にあるのだ。
 革は、上卦兌は水を貯えた沢で、下卦離は火と云う組み合わせだから、本来、相反する関係にある。しかし互体(三四五)乾は陰陽五行の金なので、上卦の水と下卦の火の間に金が在り、水と火を分断して、上卦の水は下卦の火のところへ流れない。
 下卦の火は上卦の水に届かない。下卦の火に焦点を当てて例えれば、地中の火が海水を温めて、海水を蒸発させる。小さく例えれば、台所の火が大きな釜の中の水を煮ている形である。
 水も火も本来の性質をいつでも発揮できるとは限らない。だが、火が燃え移れば、己のあり方を革めない人はいない。それゆえ、この卦を革と名付けたのである。
 革の意味は獣の皮がその表面に生える毛を治めるという意味と物事が改まるという意味が、旧い物を改めるという意味に発展したものである。
 離の上に兌が乗っている。離から兌に進むのである。離の夏から兌の秋に至る形となっている。秋は五穀をはじめとして食物が成熟する時だから、変易という意味がある。
 火は土を生じて水に剋(こく)されるので水は喜ぶのである。水と火が接近するだけでは、火は水に剋(こく)されて変革は成立しない。だが、間に金(五体三四五で乾)があるので、(水は金に生かされて)変革が成立するのである。

□彖伝
彖曰、革、水火相息、二女同居、其志不相得曰革。己日乃孚、革而信之。文明以説、大亨以正。革而當、其悔乃亡。天地革而四時成、湯武革命、順乎天而應乎人。革之時、大矣哉。
○彖に曰く、革は水火相(あい)息(ほろ)ぼし、二女同じく居り、其志、相得ざるを革と曰う。己(つちのと)の日乃ち孚(まこと)あり、革(あらた)めて之を信ず。文明にして以て説(よろこ)び、大いに亨(とお)りて以て正し。革めて當り、其悔乃ち亡ぶ。天地革まりて四時成り、湯(とう)武(ぶ)、命を革め、天に順ひて人に應ず。革の時は大なる哉(かな)。
 革の大象伝には「君子以て歴(こよみ)治め時を明かにす」とあり、彖伝には「天地革(あらた)りて四(しい)時(じ)成り」とある。
 「歴(こよみ)」とは、時の変化を記録した書であり、日月星辰の変化を暦(こよみ)として記録して、人々に時の変化を知らせるのである。
 太陽が昇って沈み、また昇るまでを一日とする。一日が三十回経過すると一月とする。ならば一年三十日×十二ヶ月で三百六十日になるはずだが、三百六十五日あるのは、太陽の運行と星の運行にズレがあるからである。
 この卦を人間社会に当て嵌めれば、兌の少女(幼く蒙昧な者)が上位に在り、離の中女(知恵ある者)が下位に在る。上下の関係が乱れており、名分が立たない。賢者と愚者の社会的地位が反対になって、お互いに疑い嫌うようになる。感情が背き合って争いや反乱が起こるのである。
 また、若い女性と中年の女性が一つの家の中に居るが、考え方や性格は正反対なので、お互いに正反対な方向を向いている状態とも云える。同居している若い女性と中年の女性が背き合っているのである。
 上卦兌が下に降りていこうとすると下卦離に遭遇し、下卦離が上に昇っていこうとすると上卦兌に遭遇する。自分から相手に向かって攻めていくつもりはないが、相手から攻められれば勝ち目はない。結果的に勝った者が現状の秩序を革めることになる。
 以上のことを「革は水火相息ぼし、二女同じく居り、其志相得ざるを革と曰ふ」と言うのである。
 お互いに背き合う時を火沢睽だとすれば、お互いに滅ぼし合う時が沢火革である。
 水火既済は水が火の上にあるのに、滅ぼし合わない。水火既済の上卦坎の水は動いて(流れて)いるので、火は水を温めて蒸発させる(滅ぼす)ことができないのである。
 沢火革の上卦沢の水は動いていない(流れていない)ので、火によって温められ沸騰して、蒸発してしまう(その形を変じてしまう)。火沢睽の時は、火が上に在り、水が下に在るので、お互いに影響し合わないのだ。
 沢火革の時は、水が上に在り、火が下に在るので、上の水が沢から溢れて下に流れてくれば、下の火は消えてしまうし、下の火が盛んに燃えれば、上の水は沸騰して蒸発してしまう。お互いに滅ぼし合うので「相(あい)息(ほろ)ぼし」と言うのである。
 滅んでしまった者の中には生き残っている者が存在する。一休みすることを一息と云うように、滅びた者はまた蘇(よみがえ)ってくることもある。水と火は滅ぼし合う関係にあるので、相手を見ると攻撃しようとする。それゆえ「相(あい)得(え)ざる」と言うのである。
 陰陽五行に当て嵌めれば、兌は金、離は火である。金は火に熱せられて溶けてしまうことを恐れるのだ。しかし、鉱石から金を採取し、金から宝石を作り出すように、火は金を加工して、金の付加価値を高めることもできるのである。
 革命が起こる時でも、最初は民衆から支持されない。人間誰しも変化することを嫌うので革命を為し遂げることは難しい。今、革命の時に至ったと察知することは至難の業である。
 天下国家は広く、民衆の数も多い。民衆の価値観は多様であり、利害関係は複雑に絡み合っている。民衆が革命を最初から支持しないのは当然のことである。
 革命を為し遂げることは難しい。だが、一旦革命が成立すると、それまでの行き詰まり感は解消されて、体制と人心が一新するので、結果的に民衆は大いに喜ぶことになる。
 以上を「己(つちのと)の日乃(すなわ)ち孚(まこと)あり、革めて之を信ず」と言う。「己(つちのと)の日」とは、ある物事が終わる日(陰陽五行の、十干~甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)申(しん)壬(じん)癸(き)~の半ばを過ぎた状態)である。下卦離の太陽が上卦沢の中に入ると云うのが、己(つちのと)の日である。
 沢火革の時は、内卦に離の文明があるので、革命を実行する前に、よく現状を分析して、革命の是非を理性的に検討する。
 革の時には、外卦に兌の喜ぶ心があるので、人々の心は柔順で調和している。革命が起こっても驚いて乱れたりはしない。やがては革命が為し遂げられることを大いに喜ぶのである。
 民衆には真心があるので、自ずから人徳を磨いて、革命を受け容れる。「思いやりの心=仁」によって、暴力を伴う革命の時を克服する。乾(互体三四五)の正しい性質を用いて革命の時を成就する。歴史の流れの中で革命の必然性は正当化される。
 以上のことを「文明にして以て説(よろこ)び、大いに亨(とお)りて以て正し」と言うのである。
 けれども、革命は暴力を伴い人を傷付けることがあるので、革命を実行する人々は後悔することもある。だが、革命を為し遂げて今の体制を壊してしまわなければ、社会的な矛盾が益々深刻化していく。そこで、革命を為し遂げて、今の体制を刷新することで、暴力による犠牲が生じたとしても後悔しないようになる。それゆえ「革(あらた)めて當(あた)り、其(その)悔(くい)乃(すなわ)ち亡(ほろ)ぶ」と言うのである。
 下卦離は夏である。上卦兌は秋である。夏と秋が交わるのは陰陽改革の徳である。夏の暑い時が秋の寒い時に変じることによって季節は循環するのである。
 古代中国の歴史にこれを当て嵌めると、湯(とう)王(おう)が夏王朝を革命によって討伐し、武王は殷王朝(最後の皇帝紂王)を革命によって討伐したのである。いずれも、民衆の支持を得て革命を為し遂げたのである。民衆が支持することは天もまた応援する。それゆえ、夏王朝最後の皇帝桀王や殷王朝最後の皇帝紂王の悪政を革命によって討伐して、民衆の安全を確保したのである。
 すなわち、革命は天の道に順い、人の道に応じている。歴史はこのように進行していく。天の道・地の道に順わなければ功を上げることはできない。天地の道に背けば、やがては滅びるしかない。また、聖人が説く道に順わなければ功を上げることはできない。聖人が説く道に背けば、やがては滅びるしかない。以上のことを「天地革まりて四時成り、湯武、命を革め、天に順ひて人に應ず。革の時は大なる哉」と言うのである。
 君子たる者、己の身を正して、背中で民衆を惹き付け、共に天地の道を突き進む。そして、自分の言行の正しさを神仏に尋ねて、神仏のお許しを得てから革命を起こすのである。
 湯王や武王のように聖人と称される偉大な王さまは、夏王朝最後の皇帝桀王や殷王朝最後の皇帝紂王の悪政があったから革命を起こしたのである。時に背けば革命は為し遂げられない。

□大象伝
象曰、澤中有火革。君子以治歴明時。
○象に曰く、澤の中に火有るは革なり。君子以て歴(こよみ)を治め時を明かにす。
 「沢の中に火有る」とは、下卦離の太陽が西の空に沈んでいくという意味である。「有る」とは、本来は有ってはならないのに有ると云うことである。上卦兌の沢の中には水が有るべきなのに、今は下卦離の太陽が有るのは、変革の形だからである。
 沢火革は変易の道。物事が大きく変化する時。大変革が起こる時。歴史的な出来事として後世に語り継がれる大変革である。
 変易の道は四季(春夏秋冬)の変化にその法則が見事に現れている。その法則に順って変革を起こせば、天も味方する。
 沢火革は、一日が終われば、また一日が始まる(太陽が西の空に沈めば、また翌日は東の空から昇ってくる)と云う形である。
 また、上卦兌の金(陰陽五行)と下卦離の火(同上)の組み合わせで物語が描かれている。兌の金を離の火が溶かして金が革まる。それゆえ、革と名付けたのである。
 易経の物語は下から上に進んで行く。下卦離は夏であり、上卦兌は秋である。すなわち、夏から秋に移行する時である。
 夏は万物が繁栄するが、秋は万物が萎(しぼ)んで枯れていく。一つの物事が繁栄から衰退に変化していくのである。まさしく、変革の時であり、革命の時である。
 君子は変革や革命を現す沢火革の形を見て、天地宇宙が生成発展していくことに思いを寄せるのである。
 一日の積み重ねが一月となり、一月の積み重ねが一年となることを踏まえて、季節の変化も寒暖の変化も天地宇宙の生成発展の過程にあることを深く知り、暦を作成して季節の変化に対応するやり方を民衆に提示する。それゆえ「君子以て歴(こよみ)を治め時を明かにす」と言うのである。
 暦(こよみ)は天地宇宙の生成発展を季節の変化の中に示したものである。季節の変化に合わせて農業や祭祀を行うことが人間の役割である。天の道に合わせて人の道を切り開くために暦を作成するのである。
 大昔の偉大な王さまは、太陽と月の運行を調べて一つの法則を導き出して暦(こよみ)を作成した。暦は天地宇宙の生成発展に順って農業や祭祀の年間スケジュールを定めたものである。
 以上のことから、沢火革の時における変革や革命の意義を考えると、人の道が天の道に適合するために起こる変化の姿だと云うことがわかる。
 天地宇宙の生成発展は変易の法則によって行われる。変易の法則は易経の基本原理である。昼から夜へ、一日から一月へ、一月から一年へと変化するのは全て変易の法則による。変易の法則によって時が革まることをよく認識しておくべきである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。鞏用黄牛之革。
象曰、鞏用黄牛革、不可以有爲也。
○初九。鞏(かた)むるに黄(こう)牛(ぎゆう)の革(かわ)を用(もち)ふ。
○象に曰く、鞏(かた)むるに黄(こう)牛(ぎゆう)の革(かわ)を用(もち)ふとは、以て爲す有る可からざる也。
 「鞏(かた)むるに黄(こう)牛(ぎゆう)の革(かわ)を用(もち)ふ」の「革(かわ)」とは、団結する、堅固で動かないと云う意味である。「黃(こう)牛(ぎゆう)」とは、柔順なことを例えているのであり、下卦離の形である。
 沢火革の時は、全体から見ると変革の物語、部分から見ると下卦離が上卦兌を革める時である。だが、初爻から上爻に至るまでの形から見ると、内卦離から外卦兌に進んで行くに連れて、少しずつ陽爻の剛健な性質で変革を進めていくが、最初は陰爻の柔順な性質で時に適合していく内容となっている。内卦(下卦)の段階では妄動すべきではないと戒めている。
 変革は大事なことである。変革の時においては、社会的地位や才能を有する人物であっても、時を待って動くべきである。
 今、初九は剛健で明智な才能を有しているが、組織の最下・変革の時に始めに居る。それゆえ、今すぐに変革や改革につながる動きをする権利も権力もない。応爻もないので誰も支援してくれない。今は、確乎不抜の志を打ち立てる時であり、人徳を磨いて来たるべき時に備えるべきである。
 柔順な牛が静かに決意を固めるように、今は旧体制に順って妄動しない。今はまだ非常事態ではなく常態(平常時)なので、物事を簡単に革めようとしてはならない。もし、革めようとして妄動すれば必ず凶運を招き寄せて、周りの人々から批判される。それゆえ「鞏(かた)むるに黄(こう)牛(ぎゆう)の革を用ふ」と言うのである。
 象伝に「以て爲す有る可からざる也」とある。下卦離は上がっていくという性質があるが、中身は剛健の性質を具えていない。初九は最下に居て社会的な地位が低く、上から応援してくれる人が居ない。それゆえ、今は確乎不抜の志を打ち立てて、人徳を磨き、妄動することを強く戒めているのである。
 改革を急いで動いてはならない。「爲す有る」とは改革を実行すること。「可からざる」とはしてはならないと云うことである。沢火革の時でも、今は改革を実行してはならないのである。

六二。己日乃革之。征吉无咎。
象曰、己日乃革之、行有嘉也。
○六二。己(つちのと)の日乃(すなわ)ち之を革(あらた)む。征けば吉にして咎无し。
○象に曰く、己(つちのと)の日乃(すなわ)ち之を革(あらた)むとは、行きて嘉(よろこび)有る也。
 「己(つちのと)の日」とは、改革を実行すべき日である。改革を成し遂げるためには、時が至るのを待ってから行うべきである。
 時が至る前に改革を実行すれば、民衆はその動きを疑って、改革は支持されない。けれども、時が至ったのに実行を躊躇していると、チャンスを逃してしまうのである。
 「己(つちのと)の日乃(すなわ)ち之を革(あらた)む」とは、「改革すべき時が到来したら、改革を実行すべきだ」と云うことである。
 六二は柔順中正の性質を具えており、下卦離(文明)の主爻である。すなわち、才能と人徳を兼ね備えており、上位には応じる関係にある王さまが居る。改革を実行すべき時が至れば、王さまに命令されて旧来の弊害を改革する担当者である。
 六二は中正の性質を具えているから物事に偏ることなく、下卦離(文明)の主爻だから物事を知り尽くしている。王さまと応じる関係にあるから権力の後ろ盾があり、柔順の性質を具えているので勇み足を履むことはない。正(まさ)しく改革の中心人物である。大事業を成功させる人物は時を誤らないのである。
 初爻は時に及ばない。三爻は時を失している。二爻のみ時に応じている。だが、改革をリードする立場ではない。上位と下位の人々に信頼され、民衆の支持を得てから改革を実行すべきである。今はまだ改革の時は至っていない。それゆえ「己(つちのと)の日乃ち之を革む。征けば吉にして咎无し」と言うのである。
 「乃ち」とは改革の時が至るのを逃さないこと。「征けば」とは改革を実行すること。「吉」とは改革を成し遂げることである。
 「吉」の前提条件は、改革の必要性を熟慮し、利害関係を乗り越え、民衆の支持を得て、時が至ったらそのタイミングを逃さずに、改革を実行することである。
 以上のようであれば、共に改革を実行する人々に信頼され、自信を持って改革を実行することができる。それゆえ、「征(ゆ)けば吉にして咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 象伝に「行きて嘉(よろこび)有る也」とあるのは、民衆が改革の必要性を理解してから改革を実行すれば、改革は成功してみんなが喜ぶと云うことである。改革は時を待つべきである。そのタイミングを逃さないことが大事である。
 時を待って実行しなければ、改革を成功させることはできない。改革は成功させることは難しいから、成功すればみんなが喜ぶ。それゆえ「行きて嘉(よろこび)有る也」と言うのである。

九三。征凶。貞厲。革言三就。有孚。
象曰、革言三就。又何之矣。
○九三。征(ゆ)けば凶。貞(ただ)しけれども厲(あやう)し。革(かく)言(げん)三たび就(な)る。孚(まこと)有り。
○象に曰く、革(かく)言(げん)三たび就(な)る。又何(うず)くにか之(ゆ)かん。
 「征けば凶」の「征けば」とは、征くこと、改革を実行することである。「貞しけれども厲(あやう)し」の「貞しけれども」とは、改革に固執してはならない。固執すれば危ういと云う意味である。
 九三は内卦に在る(改革の時の始めの段階に在る)ので、まだ改革を実行すべき段階ではない。時が至っていないのに、強引に改革を実行すれば、改革を成し遂げることはできない。逆に大失敗に終わることになる。
 これといって改革を実行する理由もないのに、改革を実行してはならない。すなわち、時至らずに改革を実行すれば、改革の必要性が高くても、改革を成し遂げることはできない。改革を実行する必要性が低ければ、改革を実行する意味がない。
 九三は剛健の性質を具えており、危ない地位・やり過ぎる場所に居るので、何事もやり過ぎる傾向が見られる。また下卦離(火)の極点に居るので炎上する可能性が高いのである。
 短気な性格でせわしないので何かと暴発しやすい。頭が切れるので才能に溺れやすいところもある。以上のことから、まだ改革の時は至らないのに、あせって改革を実行しかねないのである。
 今、実行すれば失敗すること必至である。九三が改革を実行することに固執すれば、改革を成し遂げることはできないし、周りの人々から疑われることになる。極めて危ない。
 それゆえ「征けば凶。貞しけれども厲(あやう)し」と言うのである。
 改革を成功させるためには、安易な気持ちで実行してはならない。改革の時はまだ至らない。まずは足場を固める。今は足場を固めて、時が至ったら速やかに実行すべきである。
 時が至った時にグズグズしているのは駄目だが、時が至る前に動いてはならないのである。
 改革の弊害は、慎重であるべき改革の実行を簡単に考えて軽い気持ちで実行した時に発生し、多くの人々を不幸に陥れることである。
 爻の段階で見れば、初爻は革のように固く自分を戒める時。二爻は然るべき時を待つべき時である。三爻はまだ時が至らないので強引に改革を実行すれば大きな弊害が生じるのである。
 外卦の四爻に至って初めて、民衆が改革の必要性を感じるようになり、改革はいよいよ実行段階に突入する。
 それゆえ「革(かく)言(げん)三たび就(な)る。孚(まこと)有り」と言うのである。革言とは革命に至るまでの段階を述べた論理である。

九四。悔亡。有孚改命、吉。
象曰、改命之吉、信志也。
○九四。悔亡ぶ。孚(まこと)有り。命(めい)を改めて吉。
○象に曰く、命(めい)を改むるの吉は、志を信ずる也。
 改革を実行すべく企画することを「言」と云い、改革を実行して役割を全うすることを「命」と云うのである。
 九四は内卦の時(改革の時が至るのを待つ時)が終わり、外卦に至る時(改革の時が至る段階)である。下卦離の夏が終わり、上卦兌の秋がやってきた。改革の時が至る段階にある。
 人徳も具えており、社会を覆う弊害を革める才能もある。実行力もあり、志も確立している。それゆえ、社会の弊害を革める任務に中って、九五を補佐して変革を実行するのである。
 革の九四は、乾為天の九四の文言伝にある「乾(けん)道(どう)乃ち革(あらた)まる」如き存在である。六爻の中で九四だけが不正の位に在るが、沢火革の時の中で、改革を実行する段階に至り、改革を実行して後悔するところのない人物である。
 改革を実行するのは、旧来の弊害を取り除いて新しい体制を作り上げていくことである。だから「悔亡ぶ」と言うのである。
 九四の段階では、改革の大義を説いている。改革には大義から瑣事まで色々ある。殷の湯王や周の武王が行った革命は大義に基づいて成し遂げられたのである。
 革命を実行する人物の心が公明正大であり、天の道に則っており、天下国家の人々から感服される存在であれば、革命を実行しても問題は起こらずに成功に導くことができる。
 しかし、革命を実行する人物の心に髪の毛一本ほどでも私心があれば、革命を成功に導くことはできない。
 九四は初九とは陽同士だが同じ志で結ばれている。また九五とは陰陽相比している。すなわち上下からその至誠の心を信頼されている。それゆえ「孚(まこと)有り。命を改めて吉」と言うのである。三爻から五爻に至るまで「孚(まこと)」と云う字が使われているのは、互体(三四五)乾だからである。
 九四の孚(まこと)は強固だから、天下の人々は九四を信頼する。九四が革命を実行すれば、旧来の弊害を除去して、新しい体制を作り上げる気風が醸成される。これ以上の吉運は考えられない。
 象伝に「志を信ずる也」とあるのは、革命を実行する人物が打ち立てた志は、公明であり、上は天の道に通じ、下は天下国家の人心に通じていると云うことである。

九五。大人虎變。未占有孚。
象曰、大人虎變、其文炳也。
○九五。大(たい)人(じん)虎(こ)變(へん)す。未だ占はずして孚有り。
○象に曰く、大(たい)人(じん)虎(こ)變(へん)すとは、其(その)文(ぶん)炳(へい)たる也。
 九五は王さまの地位に就いており、剛健中正の徳を具えている。変革を実行する時において、革命を成し遂げて天下国家の弊害を除き去る人物である。
 鳥や獣の皮の毛は秋になると生(は)え替わる。英雄として傑出した人間力を有する大(たい)人(じん)は陽性で剛健な才能を具えているので、天命に基づき、民衆の支持を得ており、天下国家の宝である。
 そのような人物だから、天下国家の弊害を除き去り、世の中を刷新することができるのである。
 変革の時が至るまでは牛のように柔順であったが、いよいよ時が至り天下国家の弊害を取り除く時が到来したのだ。
 大人九五は虎の毛が生え替わるように、世の中の体制を大変革する。民衆は大人九五の人徳に感化して、大人九五に信服しない者はいない。大人九五が成し遂げた革命が吉運を招き寄せることを誰もが信じている。それゆえ「大(たい)人(じん)虎(こ)變(へん)す。未だ占はずして孚(まこと)有り」と言うのである。
 「未だ占はずして孚(まこと)有り」の「未だ占はず」とは、それは必然であり疑問を差し挟む余地もないと云う意味である。「孚(まこと)有り」とは、間違いない・本物であると云う意味である。
 下卦離は亀の形であり、上卦兌には決定(占断自在 高島周易講釈 八幡書店)と云う意味、すなわち「占う」という形がある。それゆえ逆に「占はず」と云うのである。
 何かを決断することができない時は、神仏を頼って、迷いを吹っ切るのである。しかし、物事の道理を知って断固と決断している人は、神仏を頼る必要はない。
 「占い」は将来を予測するものであり、「孚(まこと)」は現在の心境である。すなわち「孚(まこと)」は迷いのない心境である。
 象伝に「其の文(ぶん)炳(へい)たる也」とあるのは、大人九五の人徳は虎のように威厳があり、その革命のあり方は虎の毛並みの模様のように鮮やかであることを云う。
 「炳(へい)」とは、鮮やかなことである。虎の毛並みの模様は大きくはっきりしており鮮やかである。革命のあり方は虎の毛並みの模様のように鮮やかであるべきことを云う。
 乾為天の飛龍(九五)は、その人徳を称賛して飛龍と云い、沢火革の虎變(九五)はその功業を称賛して虎變と云う。
 革命に中って民衆から信頼されることは難しい。大人九五は人徳者だから、人々を感化して革命を成し遂げる。民衆が大人九五を信頼しているからである。

上六。君子豹變。小人革面。征凶。居貞吉。
象曰、君子豹變、其文蔚也。小人革面、順以從君也。
○上六。君子豹(ひよう)變(へん)す。小人は面を革む。征けば凶。貞に居れば吉。
○象に曰く、君子豹(ひよう)變(へん)すとは、其(その)文(ぶん)蔚(い)たる也。小人は面(めん)を革(あらた)むとは、順にして以て君に從(したが)ふ也。
 「君子豹(ひよう)変(へん)す」とは、「虎(こ)変(へん)」と同じで上卦兌の性質・武人の例えである。上六は卦極に居る。すなわち、変革や革命が成就する段階である。沢火革の時において、変革や革命は、九四の段階から始まって九五で実行し上六で完成するのである。
 君子が時を得たから成し遂げられたのである。豹の模様のように見事に変革や革命が成就したのである。九五を大人と云い虎と云う。上六は君子と云い豹と云う。
 共に変革や革命を担っている存在である。九五(大人・虎)は虎の模様のように鮮やかに変革や革命を実行する。上六(君子・豹)は豹の模様のように見事に変革や革命を完成させる。
 変革や革命を完成させるためには小人に配慮することが肝要である。それゆえ上六の君子は小人を従えながら豹の模様の如く見事に変革や革命を完成させていく。
 小人は私利私欲に惹かれやすく、悪に染まりやすいので、大人や君子のように変革や革命の必要性を理解できない。
 そのような小人の性質を寛容に受け容れながら、変革や革命を完成させていく。毎日毎日風が岩を削るように、漸次に小人を変革や革命に順えていくのである。
 「面」とは向かうことである。「革面」とは変革や革命に向かわせていくと云うことである。それゆえ「君子豹(ひよう)變(へん)す。小人は面(めん)を革(あらた)む」と言う。
 この卦は変革や革命のあり方を虎や豹などの禽獣に例えている。天下国家が大きく変革していく様子を虎や豹の鮮やかな模様に例えているのである。
 「征く」とは、変革や革命が成就した後で、小人が面(めん)従(じゆう)腹(ふく)背(はい)することを責めて、心から従うように強制することである。
 小人は大人・君子とは違って、心から善の道に進むことができないから、強制すれば反乱を起こしかねない。それゆえ「征けば凶。貞に居れば吉」と言うのである。
 「貞に居れば吉」とは、小人が表面的に順えば善しとするのである。変革や革命はすでに成就した。小人を強引に従わせるべきではない。表面的にでも順えば善しとすべきである。
 象伝に「其の文(ぶん)蔚(い)たる也」とあるのは、君子が豹の模様の如く見事に変革や革命を成就させる様子は何とも美しいではないかと称賛しているのである。
 「蔚(い)」と「炳(へい)」の違いは、「蔚」は君子の動きを指し、「炳」は天下国家の動きを指している。「其の文(ぶん)蔚(い)たる」とは、君子の立ち居振る舞いが美しいと云うことである。
 「順にして以て君に從う也」とは、小人は君子の美しい立ち居振る舞いを見て、己の姿を恥ずかしく思い、君子の立ち居振る舞いを真似するようになると云う意味である。
 君とは九五を指す。天下国家が疲弊しても、現体制を刷新するのは難しいことである。また、変革や革命によって現体制を刷新したとしても、その新しい体制を幾久しく維持していくことは難しい。それゆえ、変革や革命が成就する段階で「貞に居れば吉」と戒めているのである。

 

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