火沢睽 九四の易占 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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九四
九四。睽孤。遇元夫、交孚。厲无咎。
○九四。睽孤(けいこ)なり。元夫(げんぷ)に遇(あ)い、交々(こもごも)孚(まこと)あり。厲(あやう)けれども咎(とが)なし。
六五と六三に近づくが、六五は九二、六三は上九と正応ゆえ相手にされない。孤立無援。己の志がねじ曲がっていたことを反省して、本来応ずるべき初九の賢人に面会する。
お互い真心から交わって親しみ合う。危ない立場であったが、咎を免れる。
象曰、交孚、无咎、志行也。
○交々(こもごも)孚(まこと)あり咎(とが)なしとは、志行わるるなり。
真心から交わって親しみ合う。咎を免れる。
私心を滅して公に奉じ、志に沿って行動するのである。
(占)地位は高いが、縁者は少なく、自己中心的なので、下々に嫌われて孤立無援。だから、心配事は絶えずに不満も多い。
○真心を大事にして、柔和に人と接すれば、その人德に惹かれて、支援してくれる人が現れる。
○部下に助けられる(部下の支援を得る)時である。
(占例)明治二年十二月、わたしは海軍の蒸気船「飛龍丸」を借りて支那から輸入した米を積んで、南部藩の宮古に向かって出航した。
乗船してからの運勢を占って、筮したところ睽の四爻を得た。
わたしは常に、何か事に臨む時には占筮して運氣を予測しているので、四爻の爻辞に「咎なし」とあることを信じて、乗船してからの運勢については、何も心配しなかった。乗船してしばらくすると多忙な日々を忘れて、ゆったりと過ごすことができたので、南部藩で父と共に過ごした昔のことに思いを馳せた。その頃、宮古の阿波屋いた「すえ」という芸者と親しくしていたことを思い出した。
そこで、宮古に着いたならば久しぶりに「すえ」と再会しようと思い、居ても立ってもいられない気持ちになった。
蒸気船は迅速なはずのに、気持ちが先行して、遅々として進まない。宮古に着いたら、さっそく「すえ」を招いて、船長や士官にも引き合わせよう、きっと吃驚(びっくり)するだろう。などと一人で考えて心の中で喜んでいた。船長や士官の顔を見ては、その時のことを想像してニヤニヤしたり、夜も眠れないほどウキウキしていた。
年も明けて一月三日の夜十時頃、宮古港に到着した。お米が届いたので役場の人々が船に乗り込んできた。その中に面識のある人が二人いたので、再会したことを喜び合い、宿の手配をお願いしてから、阿波屋の「すえ」に、わたしが来たことを伝えて、宿まで来るように伝えてもらうことにした。
それから、船長をはじめ士官十数名と宿に行き、芸者を呼んで酒宴を催した。その席でたびたび「すえ」はどうした、「すえ」はまだかと、宿の人を叱りつけると、「はいはい」と答えるのに、いくら待っても「すえ」の姿は見えない。夜も更けて、酔っぱらう者や眠る者も出て来て、そろそろ酒宴も終りにさしかかった頃、わたしは大きな声で「すえ」はどうしたと叫んだところ、「わたしは、先刻からここにいますよ」と老婆が答えた。わたしは老婆を見て吃驚して開いた口がふさがらなかった。よく考えれば「すえ」と別れてから二十年近く経つ。
昔の「すえ」が、そのまま現れるはずもないのである。それにしても老いたものだと、その後の話を聞くと、大病を患い、縁故もないので、昆布やスルメを干して細々と暮らしていると云う。
まことに哀れな話を聞いて、世の浮き沈みを噛み締めた。
そして「すえ」の今後を思って、宮古が凶作なので、「すえ」のために支那米二十俵分の小切手を置いてきたのである。
「すえ」は深く喜んで頭を深く下げて帰って行った。
以上のことは、爻辞の「睽孤(けいこ)なり。元夫(げんぷ)に遇(あ)い、交々(こもごも)孚(まこと)あり。厲(あやう)けれども咎(とが)なし。六五と六三に近づくが、六五は九二、六三は上九と正応ゆえ相手にされない。孤立無援。己の志がねじ曲がっていたことを反省して、本来応ずるべき初九の賢人に面会する。お互い真心から交わって親しみ合う。危ない立場であったが、咎を免れる」という言葉が、そのまま当て嵌まる…のである。