おはようございます。
昨日は法事のために田舎に帰っていました。
色んな紆余曲折がありながらも、
無事納骨も、食事も納めることができました。
これでほっと一息、と思いきや、
まだ、お盆などに色んな行事が目白押しです。
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そんななか、母親と大ゲンカして帰ってきました(--〆)
だから今は、お盆にも帰ってやるもんか、という拗ねた気分です(笑)
さて、みなさんは、今から書いてることを読まれて、どう感じるでしょうか。
僕も、いつもえらそーなこと、悟ったようなこと書いてますが、
はい、まだまだです(笑)
今回、僕は喪主という形で
いろんな場面で表に立つことが多かったのですが、
そんな中で、母親は
「あれしなさいよ」
「こうしなさいよ」
「あれわかってる?」
宴席でも、みんなが集まっているときでも
まるであの「○兆」の「ささやきおかみ」のように、
こそこそこそこそ横からささやいてくる。
また、行事が終わってからも
「またあんなことして」
「なんであんなこと言うの」
「普通はこうするのよ」
「恥ずかしい」
と、後ささやきも多数。
それでも、色んな思いもありつつ、
また抵抗しつつも、受け入れようとしていましたが、
極めつけに、
最後の「おつかい」に行った帰りに、
例によって
「ああした?」
「こうした?」
と訊いてきたので、それに答えると
「なんで、そんなことしたの」
「わたしならこうするのに」
「はぁ」
と、ため息ついた瞬間に、キレました(--〆)
今は一人暮らしとなった母は、
僕が帰るたびに、
「一人じゃ忙しくて」
「何もできない」
と嘆き、
手伝おうとすると
「自分でやるから置いておいて」
そのくせ
「誰も助けてくれない」
で、
助けても思い通りの結果が得られないと
先ほどのようにため息をつく。
そこを刺激されると、
僕の心は激しく反応します。
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この体験をして、以前に聞いた、斎藤ひとりさんの
「劣等感」の話を思い出しました。
親の「がっかりした顔」それが劣等感を生むんだ、という話です。
・期待に応えられなかった → 自分はだめなんだ
こうやって否定的なメッセージを送り続けていく。
・お前はだめなんだ
・お前は役に立たないんだ
・だからお前はだめなんだ
というメッセージ。
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そして、こういう話の展開になると、
・親は、そういうメッセージを投げかけてはいけない
的な話になるところです。
・本当は、親はもっとこうしてあげなければいけない
なんていう話ですね。
でも、そんな親たちも、
そんなことしたいわけじゃない。だけど、してしまうと思うのです。
なぜって、「それが正しい」と思っているから。
それが
「その時点でのその人の精いっぱいの表現」
「その時点での、その人にとってのベストの選択」
だから。
といいつつ、わかっていても腹は立ちますが(笑)
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そういう親のもとで育ったから、
子供が、僕がこうなってしまった、
なーんて、言うつもりはさらさらありません。
昨日腹が立っているときはそう思いましたが(笑)
また、そういう人に「こうしましょう」と言ってもできません。
「親とは、こうするものです」
「こうした方がいいのです」
僕が親をやってた時に、そう言われてもできませんでしたから。
わかっててもできないところに、意味があります。
そして、そういったものをひも解き、癒していくのも
僕の仕事ですし、
そういうもののおかげで、苦しんで前に進めない人が
いることもわかっています。
そして、そういった人たちの問題解決のお手伝いをしてきました。
でも、先日の神様の使いさんとの話の中で、
それらを解決することがいいこととは限らない、
と気がつきました(教えてもらえました)。
そんなことを続けていると、
別の問題に陥ってしまう、ということ。
そして、まさに自分がその問題に陥ってしまっていたということ。
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ヒントは、懐石料理やフランス料理のフルコースにあります(笑)
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癒すだけではない、
前に進めるようにしていくお手伝い、
秋から始動です(^◇^)
・・・・しかし、
「もう二度と来んわ」 と言って家を出て、高速道路に乗った後に、
携帯電話を忘れてきたことに気づいたのが
一番のショックだったのかもしれません。
かっこわるー(-_-)
追伸: だからと言って、「親はこうしましょう」「こうした方がいい」というものを
まったく無視するのも学びがないと思います。
知ってると知らないとでは大きな差が出ますからね。
そういったものも学びつつ、
色んな体験を積み重ねて、成長しながら
明るい世の中にしていけたらいいですね。