こんにちわ。
心理カウンセラーの心の欧米家です。
先日「自分に能力がないことを認めてあげる」と書きましたが、最近これがボディブローのように効いています。
全てはコインの表裏。
自分のすごいところも認めると同時に、自分のダメなところも認める必要がある、という結論に前回の時点では至ってたのですが、実はこれがもう少し深そうです。
私、2才年下の妹がいるのですが、彼女とは小・中・高・大と全て同じ学校に通っていました。
なので、どこに行っても私の友達は妹のことを知ってるし、妹の友達は私のことを知っています。
私たちは中・高一貫の女子校に通っていたのですが、高校生ぐらいの時かなー。なんか同じ部活の後輩でもないのに、妹の友達と校内で会うと「みっちゃん(妹の名前)のお姉さん」と認識される様になり、少し憧れられる感じになりました。その時に「私、中身が全然ないのに、なんで?」ってなんだかすごく恥ずかしいというか心地悪い気持ちをずっと卒業するまで持っていたことを最近思い出したのです。
特に卒業の時には私としてはあまり親しくなかった(と思ってた)後輩からも花束をもらったりして、その時「私、こんなのしてもらう価値がないのに」と強く思ったことを覚えています。
何がきっかけかはわかりませんが、私はずっと
「私は特別な能力もなく、中身も特にない人間。なのに、周りの人はそれに気が付いていない」
と思っていたのかも。
それも、振り返ってみると母から言われていた
「お姉ちゃんなんだからできるでしょ?」
という
お姉ちゃん万能説
からなのかなー。
まぁ、とりあえずきっかけや原因はよくわかりませんが、そういう気持ちを持っていた、ということです。
ただ、だからといって自分の中身がないのがバレるのが怖くて対人関係に問題があった、とかもないんですよね。だから、私の「中身がない」は性格とかトーク力とか、そういう事ではなく「私には特殊能力がない」というものだったのかも。
(ここまで書きながら、相手も「あの人特殊能力あるからすごい!」と思ってた訳ではないだろうなー思えて、私も自分の勘違い具合に笑えてくるけど。w)
で、そんな大した能力のない自分が世間にバレるのが怖くてずっと隠して生きてきた気がします。
「能力なくてもいい」
という魔法の言葉は、その隠してた部分を自分で直視した感じ。
「できない」「わからない」「能力ない」って、ネガティブなように聞こえますが、それをちゃんと言える、認められる、そしてその上で「それでも私にはこんなすごいところがある」「私は価値のある素晴らしい人間だ」って認められるって最強なことだと思うのです。
逆に「私は能力あってできるはず(だと周りからも思われてるのに)なぜできないんだろう?」みたいな気持ちを持って空回りしてた気もするなー。
「能力なくてもいい」の裏には「そんな能力がない私でも大丈夫」という優しいセーフティネットが引かれているのですね。
ということで、心屋に触れてるとどんどん生きやすくなるよー!
ブログの転載、リブログ大歓迎です