潔さの価値 | 心の風景

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心のあり方や生き方をテーマとしたエッセイなどを載せていきます。同好の方と交流できればうれしいです。

 人が何か失敗をしたり、不祥事を起こしたりしたとき、それを潔く認める人は余り多くないように思います。色々と弁解や釈明をしがちです。でも、証拠を突きつけられたりして、結局認めることも少なくありません。

 

 失敗や不祥事が発覚したとき、それを潔く認めたら、私は評価したくなります。やったことは悪いし、その人は悪人かもしれないけれど、いい印象を受けるのです。甘いかもしれませんが、「この人とは話ができるかも」などと思ってしまうんですね。そこまで計算している場合もあるかもしれませんが。

 

 以前、人ともめているとき、その人にある書類を送りました。すると、「約束が違う」とすごい批判の返事が来たのです。私はわけが分からず、「そんなことはないです。不安だったら、その書類を専門家に見てもらってください」と返事すると、「大変申し訳ありません。字が小さくて読み違いました」という謝罪の返事が来ました。

 

 「字が小さい」、ね・・・。確かに大きくはなかったですが、新聞に使われているくらいの活字なんですけど。この文章、確かに謝罪はしていますが、誤読の原因の一部を私の方に求めています。これは潔く自分の責任を認めていないし、この人とは友だちになれないな、と感じました。

 

 先日、私が客になっているある企業が大きな不祥事を起こしました。しばらくして社長名義で謝罪文が送られてきました。そこには社長自身の責任の取り方など何も書かれていませんし、余りいい謝罪ではないなと感じました。

 

 その中に「お客様から激励のお声も頂いています」という一節がありました。これについては意見が分かれるでしょうね。「これの何が問題なの」という人もいるでしょう。

 

 私はそういうものは謝罪文には入れない方がいいと思います。それは自分を守ろうとしているとも受け取れ、どこまで真摯に不祥事に向き合っているのか疑問を感じさせるからです。

 

 誰でも自分を守ろうとする意識はもっています。ですが失敗や不祥事の場合は、そういう意識を捨てた方が、周囲の評価を得られると思います。