「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」から出土した木造の川船=京都市伏見区(市埋蔵文化財研究所提供)

「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」から出土した木造の川船=京都市伏見区(市埋蔵文化財研究所提供)© 共同通信

 京都市伏見区の桂川西岸の遺跡で、江戸時代前期の木造の川船が出土した。市埋蔵文化財研究所が4日発表した。同研究所によると、この時代の板材を組み合わせた川船が、構造の分かる状態で見つかるのは全国で初めて。木造の船を造る技術が発達した歴史を解明する上で貴重な発見という。

 調査は昨年11月~今年5月、「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」で実施。少なくとも船6隻を確認した。うち1隻は長さ7.4メートル、幅1メートルで、ほぼ全体が残っていた。構造は、船底の板と側面の板の間に丸太をくりぬいた木材を使う「オモキ造り」だった。部材をつなぐ鉄くぎも見つかった。

 船は当時の護岸に使われた石や盛り土の下から出土した。使われなくなった船の板を土木資材として再利用し、石や盛り土が崩れないようにしていた。調査地付近は、古代から中世にかけて水運の拠点として栄えた「淀津」の推定地に当たる。出土した土器などの年代から、護岸や船は1623年の淀城築城や城下町整備に伴い構築されたと判断した。

京跡・淀水垂大下津町遺跡」で実施。少なくとも船6隻を確認した。うち1隻は長さ7.4メートル、幅1メートルで、ほぼ全体が残っていた。構造は、船底の板と側面の板の間に丸太をくりぬいた木材を使う「オモキ造り」だった。部材をつなぐ鉄くぎも見つかった。

 

北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA)

北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA)© 東洋経済オンライン

来年で終結から80年を迎える第2次世界大戦。広島と長崎への原爆投下を機に、日本は無条件降伏を受け容れましたが、実はその裏側では、戦後の日本の統治を巡る連合国側の「幻の計画」があったといいます。土壇場でのソ連参戦の経緯と、連合国各国の思惑とは。

※本稿は佐藤優氏の監修書『米ロ対立100年史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

戦後の覇権を巡るテーブルの下での争い

アメリカのニューハンプシャー州北部にあるブレトン=ウッズは、ワシントン山に面し、スキー場やゴルフ場の広がる人気のリゾート地だ。連合軍がフランスに上陸した直後の1944年7月、ここで連合国に属する45カ国の代表によるブレトン=ウッズ会議が開かれた。戦後の国際的な経済と金融の枠組みはこの席上で決まった。

会議の趣旨として、1929年に起こった世界恐慌のあと、世界の主要国が閉鎖的なブロック経済政策を採り、それが連合国陣営と枢軸国陣営の対立を招いたことへの反省があった。

このため、国際的な金融協力や外国為替相場の安定を図る国際通貨基金(IMF)と、戦災復興を支援する国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行ともいう)の設立を決定する。

 

 

さらに、アメリカのドルの価値の裏付けとして「金1オンス(28.3495グラム)=35ドル」と定めたうえで、ドルを基軸通貨とした固定為替相場制が採られることになる。

各国の通貨とドルの交換比率(為替相場)を一定にすることで経済の安定と貿易の発展を図る仕組みだ。これで名実ともにアメリカが世界経済の中心となった。

これらの方針をまとめたものが「ブレトン=ウッズ協定」だ。会議の参加国はそのほとんどが協定に合意したが、ソ連は第2次世界大戦での被害が大きかったことから、IMFと世界銀行への拠出金の減額を求め、IMF運営のため自国の経済に関する情報を公開することにも抵抗した。

結局、ソ連は協定に調印したものの批准はせず、IMFにも世界銀行にも参加しなかった。そして、戦後は独自の経済圏を形成していく。

ブレトン=ウッズ会議後の1944年後半、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が大規模な攻勢に出る。

枢軸国に属していたルーマニア、ブルガリアでは親独政権が倒され、ソ連軍に制圧される。ユーゴスラヴィアでは、共産主義者のパルチザン指導者ヨシプ・ブロズ・ティトーが、アルバニアではエンヴェル・ホッジャが、ソ連と連携しつつ独力で枢軸軍から国土を解放しつつあった。

連合国の思惑とドイツの「分割占領」

こうしたなか、チャーチルとスターリンは、同年10月にモスクワで会談し、戦後の東欧でのイギリスとソ連のおおまかな勢力配分を定めた。これは「パーセンテージ協定」と呼ばれ、ルーマニアはソ連が90%・イギリスが10%、ギリシアはイギリスが90%・ソ連が10%、ユーゴスラヴィアとハンガリーは両国が各50%、ブルガリアはソ連が75%・ほかの諸国が25%とされた。

この協定にローズヴェルトは参加しておらず、当事国の合意もなかったが、チャーチルの言質の下、スターリンは東欧の支配を進めることになる。

劣勢となったドイツは、ソ連内で共産党政権に反発する勢力を集めたロシア解放軍、ウクライナ解放軍などを組織するが、大きな戦果はなかった。一部のウクライナ独立主義者はナチスと協力関係を結び、これは後年、ロシアのプーチン政権による2022年のウクライナ侵攻にも影響を与える。

 

 

一方でドイツ軍に抵抗したウクライナ人も多く、1941年夏に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)は当初、ドイツ軍と連携してソ連軍と戦ったが、戦争末期になると独ソ両軍と戦った。

連合国が完全に優勢となった1945年2月、ソ連のクリミア半島にある保養地ヤルタに、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まり、ヤルタ会談を開く。

この席上で戦後の国際秩序が話し合われ、3人の首脳は連合国を中心とした国際連合の設立と、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4国によるドイツの分割占領に合意した。

議論が難航したのが、前年のパーセンテージ協定に含まれなかったポーランドの問題だ。

戦前までのポーランドはイギリスに亡命政府を組織しており、ソ連がポーランド内で成立させた共産主義政権のいずれを正当な政府とするかで意見が対立していた。最終的に、ローズヴェルトの提案で戦後に国民投票を実施して決める妥協案にまとまった。

また、ポーランドの範囲は、カーゾン線と呼ばれる戦前の国境を変更し、東部地域をソ連に編入して、代わりに国土を丸ごと西に動かすことになった。

それから間もない1945年4月末、連合軍の侵攻によって、ドイツに支援されたイタリア・ファシスト党の残存勢力(イタリア社会共和国)は崩壊し、ムッソリーニはイタリア人のレジスタンス組織に殺害される。

ヨーロッパの西からドイツに侵攻した米英軍と、東からドイツに侵攻したソ連軍は、ドイツ東部のエルベ川流域でついに合流した。両軍の兵士は握手して平和を誓い合い、これは「エルベの誓い」と呼ばれる。

おそらく、最もアメリカとソ連が友好的だった瞬間だろう。ベルリンはソ連軍によってほぼ制圧され、ナチス総統ヒトラーは自殺して、5月8日にドイツは降伏する。

ヤルタ会談で結ばれたソ連参戦の「秘密協定」

ドイツ降伏後、連合国にとって残る敵は日本のみとなる。先のヤルタ会談では、ドイツが降伏した3カ月後にソ連も日本に宣戦する秘密協定が結ばれていた。

しかも、かつて日露戦争で日本がロシアから獲得した南樺太(サハリン)、旅順、大連ほかをロシアの継承国であるソ連に返還すること、千島列島をソ連に編入する(引き渡す)ことも合意されていた。

1945年4月、ソ連は1946年4月に満了になる日ソ中立条約の継続破棄を宣言した。条約にはあと1年間の有効期限があったので、日本では首相の鈴木貫太郎らが水面下でソ連を介して連合国との和平交渉を進めていた。

しかし、その期待は裏切られることになる。

 

 

連合国では4月にアメリカでローズヴェルトが急死し、副大統領だったトルーマンが大統領に就任、イギリスでは7月の総選挙で労働党が勝利し、チャーチルは退任してクレメント・アトリーが首相となるが、対日戦の方針は変わらなかった。

トルーマンとアトリー、そして蒋介石は7月にドイツのベルリン近郊にあるポツダムで会談し、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表した。

会談にはスターリンも参加していたが、日ソ中立条約がまだ有効だったので、ポツダム宣言には名を連ねていない。

日本側は、ポツダム宣言で降伏後の天皇の立場について明示されていないことから、回答を控えて黙殺の態度を採る。軍の上層部ではなおも徹底抗戦の意見が強かったが、8月6日には広島に原爆が投下され、甚大な被害が発生する。

続いて8月9日、ソ連が対日参戦し、長崎にも原爆が投下される。

ソ連は満州、南樺太、千島列島に侵攻してきた。満州に駐留する関東軍は、すでに大部分が南方に転出していたためほとんど無力で、60万人以上もの軍人や民間人が捕虜としてシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。

2発の原爆投下とソ連の参戦、いわば米ソの挟み撃ちによって日本はとどめを刺された。

南下を続けるソ連軍と、日本の「分割占領」の検討

政府は8月15日にポツダム宣言の受諾を発表し、終戦を受け入れる。

だが、ソ連軍による戦闘行為はこの後もしばらく続く。千島列島では、8月29日までにソ連軍が、北端の占守島から南端のウルップ島までの全域を占領した。

これに前後して、別の部隊が9月3日までに、北海道とすぐ接する択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島を占領する。現在まで日本政府が「北方領土」と呼んでいるのは、この択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島の4島だ。

ソ連は、「千島列島および歯舞群島、色丹島はソ連領である」と宣言し、1946年2月にはハバロフスク地方南サハリン州に編入した。

日本の降伏前には、ソ連、アメリカ、中華民国、イギリスの4国による日本の分割占領も検討されていた。

この構想では、北海道・東北地方はソ連、関東・中部地方と三重県、沖縄県を含む南西諸島はアメリカ、四国は中華民国、中国・九州地方はイギリスがそれぞれに単独で占領し、東京市(現在の東京都23区)は4国の共同管理、近畿地方と福井県はアメリカと中華民国の共同管理となる予定だった。

米ソ間で東欧と天秤にかけられた日本

ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4国による分割占領を受け、首都ベルリンは4国の共同管理とされた。

のちに米、英、仏の占領地はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地はドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、ベルリン市街のうち米、英、仏の占領地は、東ドイツ領内にある西ドイツの「飛び地」となる。

日本も分割占領を受けていれば、ドイツと同じ分断国家となった可能性があったのだ。

しかし、トルーマンは、アメリカが占領軍の最高司令官を任命して主導権を握りつつ、他国と協調する方針を決定する。この背景には、アメリカとソ連の潜在的な対立があった。

スターリンはこれに反発したが、1945年12月にモスクワで行なわれた米、英、ソの3国外相会議で、日本はアメリカ軍と少数の英連邦軍(オーストラリア軍、ニュージーランド軍など)が占領する代わりに、東欧はソ連の勢力圏とすることが決定した。

かくして長い大戦は終結したが、それは新たな戦いである米ソ冷戦の始まりも意味していた。

ソ連(ロシア)にとって、大祖国戦争と呼ばれた第2次世界大戦での勝利は、ファシズム勢力からヨーロッパを解放したという美名によって、ソ連崩壊後もロシアの国際的な正当性とナショナリズムを訴える材料に利用されることになる。

エジプト考古学者・吉村作治氏「今からエジプトに行きます」 81歳の執念にエール殺到「まだまだ現役」

スポーツニッポン新聞社

吉村作治氏のインスタグラム(@sakujiyoshimura)より

吉村作治氏のインスタグラム(@sakujiyoshimura)より© (C) スポーツニッポン新聞社

 考古学者で東日本国際大学総長の吉村作治氏(81)が1日までに、自身のSNSを更新。エジプトに向けて出発したことを伝えた。

 吉村氏は「今からエジプトに行きます。発掘の成果に期待してくださいね」とコメント。また動画で「こんにちわ、吉村作治です。今成田空港にいます。これからいよいよ行ってきます。それでは皆さん、東日本国際大学の未来創造基金をよろしくお願いします。ありがとうございます」とメッセージを伝えた。

 この投稿にフォロワーからは「車椅子に…知らなかった」「この前のクレイジージャーニー観て度肝抜かれた」「まだまだ現役なんですね」「応援しております」「頑張って」「お気をつけて」「期待してます!」などの声が集まった。

 

 吉村氏は1966年にアジア初のエジプト調査隊を組織し、発掘調査を始めてから半世紀以上にわたり調査・研究を続けている。今回は吉村氏が長年追い求めてきたという「クフ王の墓」につながる遺跡の発掘調査に番組が密着。最新の発掘現場では土器や装飾品などが次々と出土するなど大きな成果を得た。

 4月29日放送のTBS「クレイジージャーニー」(月曜後9・00)に出演した際、過去の発掘作業中に負傷し、現在も足に後遺症を抱えているため、発掘現場での作業に制限がかかるとし、「一番最初に(発掘現場に)入りたいけど、足が悪いから入れない。すごく悔しい」と胸中を吐露していた。

アメリカは嫌いではないが、しかし、バイデンとトランプの大統領選というのは、アメリカも情けない国になって来ているというか、世界のリーダーというアメリカ人の自尊心も無くなったようだ。トランプは特に宗で単なる自己もう余りもう余りアメリカもやばい。

ニュースを見たり読んだ入りしていると、国との争いでも、政治でも、芸能界でも、ある意味、嘘でもなんでも平然と言い切る、狂信者のレベルの人間が幅を利かせて、それが良いなどと思う衆愚な民衆が、狂信者レベルにあこがれて騒ぐという、まさに、最近の日本は無関心層と狂信者レベルの衆愚政治のるつぼ。

 

  その良い例が、東京都知事選でも小池と蓮舫だけしか取り上げないマスコミでもあるし、今のNHK以下、民放もみじめな衆愚政治の典型になってるし、科学を悪用しようとしている若者が増えてるし。まじめに生きている人々は無言のままでしかいられない。いつか、日本もつけが来る。

ご無沙汰していましたが、7年前頃までは散歩など好きではなく、体を動かすのも面倒だったのですが、いやいや女房に言われて散歩をし始めたのですが、最初は五分も歩くと屋だったのですが、最近、慣れて来て、今では毎日と、日曜日にはおばさん連中を二、三人連れて、丘陵地帯を道案内して歩くようになりまして、そうすると、どんな寂しい場所でもhが数んでいるのですね。こんな場所に人が住んでるといつも思うこの頃。又、廃屋が多くなっているのですが、往時がしのばれて人間の生きざまなどを考えされることも多い。今は女房にも感謝ですかね。

 

<西側の大国は、これはウクライナの戦争だと一線を画したがる。だがもしロシアがウクライナを手に入れれば、その技術と兵士を我が物として、次の標的を襲う。第二次大戦の教訓だ>

ある著名な歴史学者が、ロシアと戦っているウクライナは第3次世界大戦を阻止していると述べ、両国が全面戦争に突入して3年目の現在を、第2次世界大戦直前の時期になぞらえた。

 

米イェール大学の歴史学教授で、東欧とソビエト連邦を専門とするティモシー・スナイダーは、2024年を1938年と比較しながら、ウクライナは、第2次大戦初期にナチスに降ったチェコスロバキアに似てきたと述べた。

1939年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツはチェコスロバキアに侵攻し、自軍の補給のためにチェコを併合した。イギリスとフランスは、ポーランドの同盟国で安全を保障していたが、それでもナチス・ドイツは同年9月、ポーランドに侵攻。これを受け、イギリスとフランスはナチス・ドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発した。

スナイダーは、エストニアの首都タリンで行われた会議で、「もしウクライナが諦めるか、私たちがウクライナを諦めれば、将来、今とは違うロシアが戦争を行うことになる」と発言した。

大戦を引き延ばしているウクライナ

「ロシアは、ウクライナの技術と兵士を手にし、地理的に異なる位置から戦争を行うことになる」とスナイダーは続けた。「その後は1939年と同じだ。今は1938年だ。ウクライナは事実上、私たちが1938年を引き延ばすことを可能にしてくれている。彼らは、1939年に突入しないようにしてくれているのだ」

ウクライナにおける2年以上にわたる本格的な紛争は、第3次世界大戦の可能性を前面に押し出した。しかしNATO諸国は、ウクライナ戦争の当事者ではないことを強調し、暴力が国境を越えて広がる可能性を封じ込めようとしている。

ウクライナは、もしウクライナがロシアに敗れれば、次はヨーロッパの他の国がロシアの攻撃対象になると警告している。

 

 先に紹介した下記に示した本「迫害され異端とされた歴史学者、津田左右吉、岡田英弘に捧げる! 異端の日本古代史」を読んでいて、異端と題名がついているように「一般の人々には真実を探求していて真実を述べても無視されるだろうと思いながらもやるしかない」という事がしみじみと伝わって来て、自分にも少しは同じようなところもあり、かといって、世間に流されている普段の自分も感じて、一瞬だが、人間の剛や儚さを感じてふと眼がしらが熱くなった。

 そして、この本の「異端の日本古代史」という題名を見ながら、なるほど、なるほどとつぶやいてもいた。

 

 

 

 

 日本人であれば、中学校と高校時代では日本史というのは必須で、少しは関心もあっただろうし、よく勉強もしていたであろう。例えば、学校では八世紀には大和王朝が編纂した『古事記』と『日本書記』(記紀と呼ぶ)という立派な史書が日本では既に生まれていたと教えられ、これらで歴史教科書の初期日本古代史については述べられているが「大化の改新:645年」の年代は「蒸しご飯食べて、大化の改新だ」などと語呂合わせで一生懸命に年代を覚えた方も多いはずである。
 ですから、日本人のほとんどは「記紀」を史書と信じて疑う事はなく、現在まで最高学府の大学や大学院においても「記紀」を中心に日本古代史学は行われている。
 

 ところが、戦前戦中を生きた歴史学者・故津田左右吉氏は「記紀」について「第十五代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて政治的目的による造作の所産であり物語として展開していったもので史実としての資料的価値は全くない」と戦前でもあったことから控えめであるが「記紀」は物語の類と暗に述べて批判した。
又、戦後には東洋史学者である故岡田英弘氏は「歴史学の基本、使えるのはヘロドトスに始まるヨーロッパ史と司馬遷らに始まる中国史だけである。その他の地域は無いに等しい」、また、後代に成立した日本の「記紀」ついて「倭人の活動が書かれている部分は皆、ずっと後世になって創りだされた、架空である。これらを使うのはむだな作業だ」と述べて「記紀」は史書たり得ないと述べていたのだ。
 そして、現在までに判明していることは、事実、『史記』以降の古代中国史料であるが記述の事象(年代や人物、出来事など)は考古学の成果とほとんど一致もして史書たりえるのだが、残念であるが、現在まで「記紀」の記述を傍証する考古学の成果はほぼ皆無であり、「記紀」は史書としてはかなり劣悪で、近代以降の論理的で科学的な学問分野では物語の分野でもあったのだ。
ですから、従来の日本古代史とは全く異なる本書を読んでいただければ、必ずや真実の古代日本の面白さも判っていただけるはずで、そして現在までの日本古代史の見直しも必要であることを少しは理解していただけるはずである。

 

 久ブルに本題

 

 ユーチューブ動画の日本古代史は玉石混合、ほら話、独善的が多いが、いくつか良いものもあるので、一つ紹介。

 

(1) 『完全版』歴史の真実を暴く!金印「漢委奴国王」の驚愕の秘密 - YouTube

 

 それはそうと、市井にて生まれてきた日本古代史を扱う団体、『邪馬台国の会』や『日本古代史ネットワーク』や『邪馬台国連絡評議会』などは終わりそうだねー。『旧古田史学会』は踏ん張っているが老人が多すぎて、どうなるか?。