------ ChatGPTの回答です--------------------------

“1. 古典中国語の文法と構造を理解する”

古典中国語(文言文)は、現代中国語とは異なり、以下の特徴があります:

- 厳格な語順がない

- 多くの単語が名詞と動詞の両方として使われる

- 「之、也、者」 などの助詞が構造を示す

- 主語や目的語が省略されることが多い

“例:”

“「倭人在帶方東南大海之中。」”

- “倭人” → 「倭(古代日本)の人々」

- “在” → 「〜に位置する」(動詞)

- “帶方” → 「帯方郡」(中国が朝鮮半島に設置した行政区域)

- “東南” → 「東南」

- “大海之中” → 「大海の中」

したがって、翻訳すると:

“「倭人は帯方の東南の大海の中にいる。」”

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“2. 他の歴史文献と比較する”

いくつかの単語や表現は、他の歴史記録にも登場するため、以下の文献と比較して意味を確認しました:

- 陳寿の”《三国志》”

- 范曄の”《後漢書》”

- 魏収の”《魏略》”

- 日本の歴史書 “《日本書紀》” など

“例:”

“「卑彌呼」”

- 日本の歴史書にも「卑弥呼」として登場

- その役割も『三国志』の記述と一致

したがって、「卑彌呼」は日本の邪馬台国の女王「卑弥呼」と特定できる。

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“3. 難解な単語の文脈的意味を判断する”

単語の意味は文脈によって異なるため、文章の流れや歴史的背景を考慮しました。

“例:”

“「生口」”

- 直訳:「生きた口」(生 = 生きている、口 = 口)

- しかし、他の歴史記録では「奴隷・捕虜」を指す

したがって、”「倭王遣使上獻生口」” の意味は:

“「倭王は使者を派遣し、奴隷を貢ぎ物として献上した。」”

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“4. 語源的・音韻的手がかりを利用する”

単語の意味は時代とともに変化するため、以下を調べました:

- “古代中国語の本来の意味”

- “古代辞書《説文解字》” などの記述

- “古代日本語や韓国語との音韻的類似性”

“例:”

“「邪馬壹國」”

- *壹*(yī)は、古典中国語では *臺*(tái)と交換可能な場合があった

- したがって、「邪馬壹國」は「邪馬臺國」(邪馬台国)の誤記と推測される

---

“5. 固有名詞を特定する”

多くの単語が地名や役職名であるため、以下の方法で識別しました:

- 同じ単語がリスト形式で繰り返し登場するか

- 歴史地図や他の記録と照合する

“例:”

“「投馬國」”

- 他の国名(対馬国、末盧国)と並んで登場

- “「國」”(国)がついているため、地名と判断

- 一部の学者は「投馬国」を九州のどこかと推測

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### “6. 歴史的・文化的背景を考慮する”

特定の用語は、当時の文化や習慣を知らなければ正しく解釈できません。

“例:”

“「男女無大小。皆黥面文身。」”

- “黥面” → 「顔に入れ墨をする」

- “文身” → 「体に入れ墨をする」

- 古代日本(や一部の南中国の部族)で、顔や体に入れ墨をする習慣があった

したがって、翻訳は:

“「年齢や性別を問わず、全員が顔や体に入れ墨をしている。」”

---

“結論”

三国時代の古典中国語を翻訳するには、以下の方法を組み合わせる必要があります:

1. “文法分析”(語順、助詞の役割、構造)

2. “歴史文献との比較”(他の資料での用例をチェック)

3. “文脈を考慮”(文章の流れや文化的背景)

4. “語源・音韻分析”(古代発音、辞書の記述を参照)

5. “固有名詞の識別”(地名や役職名を誤解しない)

6. “歴史的背景の理解”(当時の習慣や文化を考慮)

“特定の単語やフレーズについて詳しく知りたい場合は、お気軽に聞いてください!”

----------魏志倭人伝の著者陳寿を明記した翻訳依頼に対する回答------------------------

**但し、その翻訳は ***レベルは低いですね。戦前の読み下しレベルです。述べていることは、よく判りますが、そして、前段の訳す場合の注意点や問題点のところは、かなり、当方が述べていることと同じ内容の有り、良いと思います。しかし、途中からの、あなた様が述べている魏氏倭伝の現代語訳に関するChatGPTは「大変に驚くべき事は、この手順は、明治時代の大学者、白鳥博士や内藤博士が行われた研究手法と概ね同じ事です。言い替えると、生成AIは、既に、素人研究者の「思いつき説」のレベルを遙か超えてしまっていると言える事です。これはあくまでも、私の私見ですが」はやや問題が有りますかね.。     このあなたの述べていることは、日本の古代史学の古代中国漢文の理解度というのは白鳥博士や内藤博士以降に、何も進歩をしていないと述べていることでもあります。 端的に言えば、提示されたChatGPTの「魏志倭人伝」訳文は、ざんねんですが、戦前戦後の読み下し訳文と変わっていないという事ですよ。 いずれにしても、戦前から、「魏志倭人伝」の日本語訳は戦前から進歩しておらず、誤訳が多いのですよ。当方が何度も、FBで述べてきたように。

「陳寿『三国志』より和訳」

倭人は帯方郡の東南、大海の中にいる。山や島に依り国邑(国や村)を作っている。昔は百余国あった。

漢の時代には朝貢する者がいた。今は使者や通訳を通じて三十国と交わっている。

郡から倭へは、海岸沿いを船で進み、韓国を経る。

時に南へ、時に東へ進み、倭の北岸、狗邪韓国に至る。

距離は七千余里。そこから初めて一つの海を渡り、千余里で対馬国に至る。

対馬国の大官を「卑狗」、副官を「卑奴母離」という。

この国は絶海の孤島にあり、広さは四百余里ほど。土地は山が険しく、深い森が多い。道はまるで鳥獣の通り道のようである。

千余戸の家があり、良い田畑はない。海産物を食べて生計を立て、船で南北に渡り穀物を交易している。

さらに南へ一つの海を千余里渡る。この海を「瀚海」という。

一大国に至る。ここでも大官を「卑狗」、副官を「卑奴母離」という。

国の広さは三百里ほど。竹木や森が多く、家は三千余り。多少の田地はあるが、耕作地は足りず、南北に交易している。

さらに一つの海を千余里渡ると、末盧国に至る。

四千余戸があり、山と海の間に住んでいる。

草木が生い茂り、道を行くと前を歩く人が見えないほどである。

魚やアワビを獲るのを好み、海の深浅を問わず潜って採取する。

東南へ陸路五百里行くと、伊都国に至る。

ここの官は「爾支」、副官は「泄謨觚」「柄渠觚」という。

千余戸があり、代々王がいるが、皆女王国に属している。

帯方郡の使者が往来し、常にここに駐在している。

東南に百里行くと、奴国に至る。

官を「兕馬觚」、副官を「卑奴母離」という。

二万余戸がある。

東へ百里行くと、不弥国に至る。

官を「多模」、副官を「卑奴母離」という。

南へ水行二十日で投馬国に至る。

官を「彌彌」、副官を「彌彌那利」という。

五万余戸がある。

さらに南へ行くと、邪馬壹国に至る。

ここが女王の都である。

水行十日、陸行一月かかる。

官は「伊支馬」、次いで「彌馬升」、次いで「彌馬獲支」、次いで「奴佳鞮」という。

七万余戸がある。

女王国より北の戸数と道里は大まかに記録できる。

しかし、それ以外の国は遠く隔たっており、詳しくは分からない。

次に斯馬国、已百支国、伊邪国、郡支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国などがある。

これが女王の支配する範囲である。

その南には狗奴国があり、男子が王となっている。

官には「狗古智卑狗」という者がいる。

この国は女王に属していない。

帯方郡から女王国までは、一万千余里の距離がある。

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男子は大小を問わず、皆、顔や体に刺青をしている。

古くから、中国へ使者を送る際には、皆「大夫」と自称していた。

夏の少康の子が会稽に封じられた際、髪を切り、体に文身(刺青)を施したのは、蛟龍の害を避けるためであった。

今、倭の水人(漁師)は好んで海に潜り、魚や貝を捕る。そのため、彼らの文身もまた、大魚や水鳥を避ける呪術的な意味を持つが、後には装飾としての意味合いが強くなった。

諸国ごとに文身の様式は異なり、左に入れる者、右に入れる者、大きい者、小さい者とさまざまであり、身分によって違いがある。

その位置を考えると、倭は会稽の東治のさらに東にあると推測される。

倭人の風俗は淫らではなく、男子は皆、髪を露わにし、木綿を巻いて束ねている。

衣服は横幅の布を体に巻き付けるだけで、結び合わせることはあっても縫うことはない。

婦人は髪を結い上げ、服は単衣のように中央に穴を開け、頭から被って着る。

稲や麻を育て、養蚕を行い、絹織物を作る。細かな麻布や絹が産出される。

倭の地には牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。

兵器には、矛、盾、木製の弓を使う。木の弓は、下が短く、上が長い。

矢は竹製で、先端は鉄製の鏃や骨製の鏃を使用する。

生活様式は、儋耳(海南島)や朱崖と同じである。

倭の地は温暖で、冬夏を問わず生野菜を食べる。

皆、裸足で過ごす。 家屋に住み、父母や兄弟は別々の場所で寝る。

体には朱丹を塗り、中国人が白粉を使うのと同じである。

飲食には、籩(へん)や豆(とう)といった器を使い、手で食べる。

死者は棺に納めるが、外棺はない。墓は封土を盛り上げて作る。

人が死ぬと、十数日間喪に服し、その間、肉を食べない。

喪主は泣き悲しむが、他の者は歌舞し、酒を飲む。

葬儀が終わると、一家全員が水に入り、身体を清める。まるで身を洗い清める儀式のようである。

倭の使者が中国へ渡る際には、必ず一人の者が髪を梳かず、シラミを取らず、

衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦人に近づかない。

まるで喪に服しているかのようであり、「持衰(じすい)」と呼ばれる。

もし航海が順調であれば、この持衰を尊重するが、

もし病気や不幸が起こると、持衰の不注意のせいとされ、殺されることもある。

倭からは真珠や青玉が産出される。

山には丹(朱砂)があり、木には柟(なん)、豫樟(よしょう)、楺櫪(じゅうれき)、投橿(とうきょう)、烏号(うごう)、楓香(ふうこう)などがある。

竹には篠簳(しょうかん)、桃支(とうし)がある。

また、ショウガやミカン、コショウ、ミョウガもあるが、調味料として使うことを知らない。

獮猿(せんえん)や黒雉(こくち)が生息している。

倭人は、事を行う際には占いを行う。 骨を焼いて割れ目を見て吉凶を占う。

事前に何を占うかを宣言し、その言葉はまるで命令のようである。

亀の甲を焼き、その割れ方で占うのは、中国と同じである。

倭人は集会の際に、身分の区別なく同じ場所に座る。

男女の別もない。

人々は酒を好む。

(『魏略』によれば、倭人は正確な年の概念や四季を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を年の区切りとしている。)

貴人に対して敬意を表す際には、手を合わせるだけで跪拝はしない。

倭人は長寿で、百年、または八九十年生きる者もいる。

倭の社会では、貴人は四、五人の妻を持ち、庶民でも三人の妻を持つことがある。

婦人は貞淑で、嫉妬をしない。 盗みも少なく、争い事もほとんどない。

法を犯した場合、軽い罪では妻子を没収され、重い罪では一族郎党が滅ぼされる。

身分の違いは明確で、上下関係がしっかりしている。

租税を徴収し、倉庫がある。

各国には市場があり、交易は「大倭」が監督する。

女王国より北には「大率」という者が置かれ、諸国を監督する。

諸国はこれを畏れ、尊敬している。

大率は常に伊都国に駐在し、まるで中国の刺史のようである。

王は使者を京都(洛陽)、帯方郡、諸韓国へ派遣する。

また、帯方郡の使者が倭国へ来る際には、

必ず港で検閲を受け、文書や贈り物を確認し、間違いなく女王に届ける。

庶民は貴人と道で出会うと、草むらに隠れ、伝言を伝える際には、しゃがみ込むか跪き、両手を地につけて敬意を表す。

返事をする際には「噫(あい)」と言い、中国の「然(しかり)」に相当する。

倭国では、もともと男子が王であったが、七八十年続いた後、国内が乱れた。

国々は長年戦争を続け、やがて協議の結果、女王を立てることになった。

その女王の名は「卑弥呼」である。彼女は鬼道を使い、人々を惑わすことができた。

年老いていたが、夫はいなかった。弟がいて、政務を補佐していた。

卑弥呼が王となってから、人前に現れることはほとんどなかった。

侍女千人を従え、ただ一人の男子が食事の世話をした。

彼女の言葉は、この男子を通して伝えられた。

宮室には楼閣や城柵があり、常に武装した兵士が守っている。

女王国の東の海を千余里渡ると、倭種の国々がある。

さらに南には「侏儒国」があり、身長三~四尺の人々が住んでいる。

女王国から四千余里離れている。

また、東南には「裸国」「黒歯国」があり、船で一年かかる。

倭の地は海の中の島々にあり、一部は孤立し、一部は連なっている。

周囲は五千余里にも及ぶ。

景初年間の六月、倭の女王は大夫・難升米らを帯方郡へ派遣し、

天子(魏の皇帝)への朝貢を願い出た。

(以下、魏の皇帝からの詔勅と恩賞について記される。)

正始元年(240年)、太守の弓遵は建中校尉の梯儁らを派遣し、証書と印綬を奉じて倭国へ向かわせた。倭王を拝し、仮の官位を授けるとともに、勅命を伝え、金、絹織物、錦、綾、刀、鏡、彩色された品々を下賜した。

正始四年(243年)、倭王は再び使者を派遣し、大夫の伊声耆、掖邪狗ら八名を送り、朝貢として生口(奴隷)、倭錦、紅青の縑(織物)、緜衣(綿の衣服)、帛布(絹布)、丹(赤色の顔料)、木製品、短弓と矢を献上した。また、掖邪狗らは「率善中郎将」の印綬を一拝した。

正始六年(245年)、詔によって倭の難升米に黄幢(黄色の旗)が下賜され、郡を通じて仮授された。

正始八年(247年)、新たに太守の王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼と元々不和であったため、倭の使者である載斯烏越らを郡へ派遣し、戦況を報告した。これに対し、塞曹掾史の張政らが詔書と黄幢を持って倭へ向かい、難升米に仮の官位を授けるとともに、檄文を発して状況を諭した。

しかし、その後、卑弥呼は死去した。巨大な墳墓が築かれ、その直径は百余歩にも及んだ。また、殉葬として百余人の奴婢が共に葬られた。

新たに男王が立てられたが、国内の人々は服従せず、互いに誅殺しあい、その混乱の中で千人以上が死亡した。

その後、卑弥呼の宗女(一族の女性)である壹与(いよ)が王に擁立された。彼女は十三歳であり、王となると国はようやく安定した。

張政らは檄文を持って壹与を諭し、壹与は倭の大夫であり「率善中郎将」の掖邪狗ら二十人を派遣し、張政らを送り届けた。その際、壹与は朝貢として、男女の生口三十人、白珠五千孔、青大句珠、異文雑錦二十匹を献上した。

日本史上において最も毀誉褒貶が激しい人物

史上最悪の逆賊なのか、はたまた稀代の英雄なのか。日本史上における著名な政治家または武将で、足利尊氏ほど毀誉褒貶が激しく、時代によって評価が異なった人物は、ほかにいないだろう。

このうち戦前の評価は「逆賊」に一本化されていた。その流れをつくったのは、天皇を中心とする秩序を重んじ、後醍醐天皇が開いた南朝を正統と唱える水戸学だった。よく知られているように、幕末の政治運動の支柱となった尊王攘夷論は、水戸学の中核をなす考え方だった。

尊王攘夷論が目に見えるかたちで足利尊氏に向けられたのは、俗にいう「足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件」だった。これは文久3年(1863)2月22日深夜、京都の等持院霊光殿に安置されていた足利尊氏、義詮、義満、すなわち室町幕府の初代から3代までの将軍の木像の首、および位牌が持ち出された事件である。3つの首は三条河原に「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」という罪状とともに晒された。

 

少し早いが結論を先にいっておくと、水戸学に代表される、足利尊氏を「逆賊」とする評価には、歴史的な裏づけがまったくない。尊氏は「逆賊」などと呼ばれかねない失敬がないように、むしろ配慮し続けた人物だった。

また、弟の直義との名高い兄弟げんか、すなわち観応の擾乱(かんおうのじょうらん)についても、配慮ができる人物だからこそ弟に大きな権限を持たせ、激しいけんかになったといえる。

薩長藩閥によって「逆賊」に

尊氏に対する過去の評価の話に戻る。南北朝時代について、明治時代の国定教科書『尋常小学日本歴史』には「南北両朝の対立」と表記されていた。並立する2つ朝廷に対し、どちらが正統だといった評価はされていなかった。

現代の価値観からみれば、ごく当たり前の表記なのだが、これに噛みついたのが明治44年(1911)1月19日付の読売新聞だった。

「南北朝対立問題(国定教科書の失態)」という見出しがつけられたその記事は、件の教科書を厳しく糾弾する内容だった。すなわち、建武の中興に際して後醍醐天皇を支えた楠木正成や新田義貞ら「忠臣」と、それに反旗を翻した足利尊氏と直義兄弟ら「逆賊」が、同列にあつかわれていること。両朝の分立をあたかも国家の分立のように記されていること。それらが厳しく糾弾された。

この記事は、学界やジャーナリズムを巻き込んだ論争の契機になり、記事に賛同した学者らは、藤沢元造代議士に衆議院で質問させた。そして2月16日に質問が行われると、一挙に政治問題化したため、2月28日には桂太郎首相が明治天皇の裁定を仰いでいる。こうして南朝を正統化することが正式に決まり、教科書も南朝正統論にもとづいて書き直されることになったのである。

だが、南朝正統論の論拠は単純でバカバカしい。明治維新の理念に「天皇親政」があり、後醍醐天皇が元弘3年(1333、翌年に建武と改元)から行った建武の新政も、「天皇親政」を志して実現したものだった。足利尊氏はそれに弓を引いたから「逆賊」と呼ばれたにすぎない。そもそも明治政府にとって「天皇親政」など建前で、政治を動かしていたのは薩長藩閥であった。その建前を傷つけないために、尊氏は逆賊あつかいされたのである。

 

後醍醐天皇に対する本当の思い

建武の新政下で参議などの要職に就き、後醍醐天皇から厚遇されていた足利尊氏が、後醍醐天皇側と争うきっかけになったのは、建武2年(1335)に北条氏の残党が一時的に鎌倉を占拠した中先代の乱だった。

当時、鎌倉にいた弟の直義には乱を鎮められず、やむなく尊氏は8月、4万の軍を率いて出兵し、乱を鎮圧した。そのころ鎌倉では武家政権樹立の機運が高まっており、尊氏はそこに飛び込んでいったわけだ。

そして、京都に戻らず鎌倉に留まっているあいだに、直義が新田義貞と対立。11月に直義が義貞を討伐する目的で軍勢催促状を発給すると、後醍醐天皇は尊氏に謀反の意思があると判断。尊氏追討の綸旨(天皇の命令)を発し、尊氏の官職を解いた。そこにいたって尊氏は軍事行動を開始している。

だが、森茂暁氏は『足利尊氏』(角川選書)で、「凶徒」をはじめ激しい言葉で尊氏を糾弾した後醍醐天皇に対し、尊氏はそうした言葉を一切使っていないことなどを強調。尊氏が後醍醐に対していだいていたのは「畏敬と追慕の念であったことは間違いない」と記し、さまざまな例を挙げる。

約束を破ったのは後醍醐天皇の方

たとえば、後醍醐天皇の没後100日に納められた『後醍醐院百ヶ日御願文』では、「尊氏は願文中で自身を『弟子』と記しており、後醍醐から被った恩に報いたいと念じている」という。

また、足利側から書かれた歴史書『梅松論』にも、中先代の乱の平定後、後醍醐天皇の勅使から帰京を求められながら、帰らないと答えたことについて、本意ではなく「深く歎(なげ)きおぼしめされて」いたという。さらには「いつの世いつの時なりとも君(後醍醐天皇)の御芳志(ごほうし)をわすれ奉るべきにあらざれば」と述べたという。

いずれにせよ、尊氏は朝敵あつかいされるのが嫌だったからこそ、建武3年(1336)5月25日、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成を破ると光厳(こうごん)上皇を奉じて入京し、8月15日、その弟を光明天皇として即位させたのである。

 

それにこの天皇、北朝の初代とされるが、じつはこの時点では南北両朝に分かれるはずではなかった。たしかに光明天皇の即位の時点では、後醍醐天皇は退位していない。だが、比叡山に避難していた後醍醐とは、光明天皇への一本化で話がついていた。息子の成良(なりよし)親王を皇太子にする代わりに、後醍醐は譲位することで合意。実際、11月2日に帰京して譲位するとともに三種の神器を光明天皇に渡し、11月4日には成良親王が立太子した。

ところが後醍醐は12月21日、約束を破って京都を脱出し、吉野(奈良県吉野町)に逃れてしまい、南北両朝が並立することになった。こうした経緯から、南朝が正統だ、尊氏は逆賊だ、などと軽々しくいえないことがわかると思う。

13年も続いた兄弟の二頭政治

ところで足利尊氏といえば、後醍醐天皇に弓を向けたのに加え、兄弟でひどく争った人物という印象もある。兄弟とは前出の直義だが、この件はどうなのか。

後醍醐天皇がいったん譲位した5日後の建武3年(1336)11月7日、室町幕府の基本方針を示した建武式目が定められた。実質的にこれを制定したのは、行政や司法に通じていた直義だったと考えられている。

前出の森氏は建武式目について「足利尊氏が関東方面に支持者の多い直義の手を介して、幕府を京都に置くことの必要性を法知識に詳しい公武の専門家たちに諮問して、関東の有力武士の説得を多分に意識しつつ答申させたのが建武式目であった」(前掲書)と記す。

要するに、幕府の成立当初、兄弟のあいだに意見の相違はなかったようなのだ。そして建武5年(1338)8月11日、尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任命されると、同時に直義も従四位上左兵衛督(ひょうえのかみ)になっている。兄弟の同時昇進は過去に例がなく、こうして世にもまれな兄弟による「二頭政治」がはじまったのである。

森氏は尊氏が「軍事面(およびそれに伴う恩賞給付)の権限」、直義が「政務面(実質的には所領裁判)の権限」を持つ二頭政治が、貞和5年(1349)9月まで続いたとみる。森氏の説明と続けると、「二頭政治は尊氏・直義という両巨頭によって権限の棲み分けという方法をとって、互いに他方を侵すことなく調和的に運営された」ということになる。

親子対立→兄弟げんか

古今東西、兄弟の一方が一方を従わせるのではなく、力を合わせて調和的に、平和裏に政治を運営した例などほとんどない。しかも尊氏と直義の場合、その状態を13年も続けている。これはその後のけんかよりもよほど、驚くべきことではないだろうか。

しかし、それが最後までは続かなかった。尊氏のもとで軍事作戦を実行していた執事の高師直(こうのもろなお)と直義のあいだに亀裂が入り、次第に広がったのである。一言でいえば革新的な師直は新興の武士、保守的な直義は保守派の武士に支えられ、両派の対立が次第に激化。このため尊氏は高師直を執事から外すが、師直は直義の殺害を企てる。

結局、直義が担当していた政務を尊氏の嫡男の義詮に引き継ぎ、高師直は執事に復帰することなどを条件に和睦が成立した。だが、尊氏の次男で直義の養子になり、九州で勢力を拡大していた足利直冬(ただふゆ)が立ちはだかった。それを受けて尊氏と師直が、直冬追討のために出陣すると、外されたうえに養子が討伐の対象になって納得がいかない直義が挙兵。こうして兄弟が激しく争う観応の擾乱が勃発したのである。

観応2年(1351)、高師直らが殺されて直義の勝利に終わるが、半年後にはまた騒乱が勃発。結局、尊氏は対立する南朝の後村上天皇から直義討伐の綸旨を獲得。ようやく直義の軍を破り、鎌倉に幽閉したのちに殺害した。背景にはすでに述べたように、直義の養子である直冬の存在があった。尊氏は嫡男たる義詮の地位が脅かされるのを嫌ったのだろう。

いずれにせよ、足利尊氏という人物は、後醍醐天皇に対しても、弟の直義に対しても、むしろ融和的な態度をとったことこそ強調されるべきなのではないだろうか。

---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

世界は全て自分の中にだけに実はあるだけ!!
目に映る物、聞こえる音、それは自分だけが理解できる思う事ができる世界だから、本当は他の人には判らない!! 他の人と共有はしてるけど。 そして、死んだら全てが消えていく!!! 何か虚しい!!!
 死後の世界は無い!!! 
でも、でも、死んだ後でも、又、みんなに会いたい!!!父や母、兄弟、妻、子供、孫、友達や思い出の人達に!!!

 **年老いて、ふと、こんなことを思うときが増えてきている。遺言でもあるのだろう。

久しぶりに馬の生産史、馬は日本では南九州の宮崎県熊本県南部で始まりました。、

、鹵獲した馬を活用したと考えています。

鹵獲した馬は、津屋崎の渡地区(福岡県福津市)で放牧され、その後は近代まで津屋崎馬車鉄道や競馬に使われています。

騎馬を積んだ喫水が深い大型船を隠して宗像に攻め込むには、渡の楯崎神社付近が狙われました。ここの石灰を多く含んだ岸壁は、人工物のようにも見えます。もしそうなら敵の上陸を防ぐ擁壁「さざれ石」かも。

宗像市(赤間(馬)宿)や下関市(赤間神宮)などの赤馬は、渡で生産された馬だとされています。

隣の古賀市の船原古墳では、粉飾された馬具が発掘されており、花鶴浜から太(大)宰府まで高官が移動するのに使われたと考えています。

花鶴浜は糟屋の屯倉のすぐはそばです。

以降の五世紀行には播磨平野

馬匹生産と応神期、仁徳期

 応神期に百済から馬2頭が贈られた記録はありますが、数は多くなく、少なくとも積極的に軍事には活用していないようです。応神期は370-412年ですが、391-407年には朝鮮半島で高句麗軍と戦い、407年に敗退しています。396年、400年、404年、407年には倭軍が高句麗軍と戦った記録が残っていますが、407年以後、全く戦闘の記録がなくなっていることから戦争に負けて撤退したことが分かります。大敗の原因の一つは騎馬軍団をもつ高句麗軍に対して応神朝は騎馬軍団をもたなかったからでしょう。

 大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡が古代の馬匹生産センターであったことが最近、明らかにされています。時期はだいたい5世紀から6世紀初頭までですが陶質土器、瓦質土器が出土しており、370~400年に渡来人が馬匹生産を開始していた可能性があります。陶質土器、瓦質土器は倭国で須恵器が作られる前に、半島から持ち込まれた土器だからです。その数は少ないとはいえ370~400年ごろに馬匹生産を行っていたことが推測できます。私は370年ごろ、百済南方を本貫とするミチュホ(ミズホ)が倭国に侵攻したという仮説を立てています。須恵器の起源、鉄製甲冑の起源、馬匹生産の起源を調べていますが、すべて370年ごろが起源になり、考古学上も仮説は維持できます。それどころか須恵器、鉄製甲冑、馬匹生産などの起源がすべて370年ごろにそろっている事実は半島王権の侵攻によってのみうまく説明できると考えています。

 蔀屋北遺跡以外の馬具の初現期は甘木市池ノ上6号、加古川行者古墳から出土したもので5世紀初頭と考えられています。捩り銜で引手のないものです。5世紀初頭は仁徳期ですが、それより前の応神期の馬具が出土しないのは馬を軍事的に用いる発想がなく、馬匹生産を積極的に行っていなかったからでしょう。

発売中の『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』のほか、アマゾン電子ブック数冊に、関連する論拠を書いていますのでご検討、ご批判お願いいたします。またFacebookに「応神・仁徳を研究する会」を作りましたのでよろしくお願いいたしま。

おい

この説は全くダメ!

きゅしゅ南部の置いたきぇんから宮崎

久しぶりに良い質問だなと。古代中国の「海」という漢字は最も多様性があり、そのため、陳寿などは用法が決められているのですね。          当方の古代中国漢字の「海」の意味と用法を読んでないかもしれませんが、陳寿は当時の習わしで「SEA]については基本は「大海」という文句を使っています。ですから「魏志倭人伝」には「倭人在帶方東南大海之中」と最初に述べていますよ。           その後も、陳寿は「始度一海千餘里至對海(對馬)国」とわざわざ「一海」を渡ると書き、この「一海」=「(大海(SEA)の一つ」の意味です。陳寿は簡潔に文でSEAを示してる。壱岐島も同様に「又南渡一海千餘里」と示してる。何故、陳寿はわざわざ「一海」などと書いているのかを、「海」=「SEA]なら「一海」とは記述しないはず、簡潔を重んじる陳寿は。この点を少しはお考えください。陳寿は実に細やかな文を書く。

 

  陳寿は「狗邪韓国と対馬の間は川ではなくSEAを述べている」と陳寿の「海という漢字」の用法で述べているのですがね。陳寿は「狗邪韓国と対馬の間は川である」としていたら「水行」と書きますよ。

「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」から出土した木造の川船=京都市伏見区(市埋蔵文化財研究所提供)

「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」から出土した木造の川船=京都市伏見区(市埋蔵文化財研究所提供)© 共同通信

 京都市伏見区の桂川西岸の遺跡で、江戸時代前期の木造の川船が出土した。市埋蔵文化財研究所が4日発表した。同研究所によると、この時代の板材を組み合わせた川船が、構造の分かる状態で見つかるのは全国で初めて。木造の船を造る技術が発達した歴史を解明する上で貴重な発見という。

 調査は昨年11月~今年5月、「長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡」で実施。少なくとも船6隻を確認した。うち1隻は長さ7.4メートル、幅1メートルで、ほぼ全体が残っていた。構造は、船底の板と側面の板の間に丸太をくりぬいた木材を使う「オモキ造り」だった。部材をつなぐ鉄くぎも見つかった。

 船は当時の護岸に使われた石や盛り土の下から出土した。使われなくなった船の板を土木資材として再利用し、石や盛り土が崩れないようにしていた。調査地付近は、古代から中世にかけて水運の拠点として栄えた「淀津」の推定地に当たる。出土した土器などの年代から、護岸や船は1623年の淀城築城や城下町整備に伴い構築されたと判断した。

京跡・淀水垂大下津町遺跡」で実施。少なくとも船6隻を確認した。うち1隻は長さ7.4メートル、幅1メートルで、ほぼ全体が残っていた。構造は、船底の板と側面の板の間に丸太をくりぬいた木材を使う「オモキ造り」だった。部材をつなぐ鉄くぎも見つかった。

 

北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA)

北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA)© 東洋経済オンライン

来年で終結から80年を迎える第2次世界大戦。広島と長崎への原爆投下を機に、日本は無条件降伏を受け容れましたが、実はその裏側では、戦後の日本の統治を巡る連合国側の「幻の計画」があったといいます。土壇場でのソ連参戦の経緯と、連合国各国の思惑とは。

※本稿は佐藤優氏の監修書『米ロ対立100年史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

戦後の覇権を巡るテーブルの下での争い

アメリカのニューハンプシャー州北部にあるブレトン=ウッズは、ワシントン山に面し、スキー場やゴルフ場の広がる人気のリゾート地だ。連合軍がフランスに上陸した直後の1944年7月、ここで連合国に属する45カ国の代表によるブレトン=ウッズ会議が開かれた。戦後の国際的な経済と金融の枠組みはこの席上で決まった。

会議の趣旨として、1929年に起こった世界恐慌のあと、世界の主要国が閉鎖的なブロック経済政策を採り、それが連合国陣営と枢軸国陣営の対立を招いたことへの反省があった。

このため、国際的な金融協力や外国為替相場の安定を図る国際通貨基金(IMF)と、戦災復興を支援する国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行ともいう)の設立を決定する。

 

 

さらに、アメリカのドルの価値の裏付けとして「金1オンス(28.3495グラム)=35ドル」と定めたうえで、ドルを基軸通貨とした固定為替相場制が採られることになる。

各国の通貨とドルの交換比率(為替相場)を一定にすることで経済の安定と貿易の発展を図る仕組みだ。これで名実ともにアメリカが世界経済の中心となった。

これらの方針をまとめたものが「ブレトン=ウッズ協定」だ。会議の参加国はそのほとんどが協定に合意したが、ソ連は第2次世界大戦での被害が大きかったことから、IMFと世界銀行への拠出金の減額を求め、IMF運営のため自国の経済に関する情報を公開することにも抵抗した。

結局、ソ連は協定に調印したものの批准はせず、IMFにも世界銀行にも参加しなかった。そして、戦後は独自の経済圏を形成していく。

ブレトン=ウッズ会議後の1944年後半、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が大規模な攻勢に出る。

枢軸国に属していたルーマニア、ブルガリアでは親独政権が倒され、ソ連軍に制圧される。ユーゴスラヴィアでは、共産主義者のパルチザン指導者ヨシプ・ブロズ・ティトーが、アルバニアではエンヴェル・ホッジャが、ソ連と連携しつつ独力で枢軸軍から国土を解放しつつあった。

連合国の思惑とドイツの「分割占領」

こうしたなか、チャーチルとスターリンは、同年10月にモスクワで会談し、戦後の東欧でのイギリスとソ連のおおまかな勢力配分を定めた。これは「パーセンテージ協定」と呼ばれ、ルーマニアはソ連が90%・イギリスが10%、ギリシアはイギリスが90%・ソ連が10%、ユーゴスラヴィアとハンガリーは両国が各50%、ブルガリアはソ連が75%・ほかの諸国が25%とされた。

この協定にローズヴェルトは参加しておらず、当事国の合意もなかったが、チャーチルの言質の下、スターリンは東欧の支配を進めることになる。

劣勢となったドイツは、ソ連内で共産党政権に反発する勢力を集めたロシア解放軍、ウクライナ解放軍などを組織するが、大きな戦果はなかった。一部のウクライナ独立主義者はナチスと協力関係を結び、これは後年、ロシアのプーチン政権による2022年のウクライナ侵攻にも影響を与える。

 

 

一方でドイツ軍に抵抗したウクライナ人も多く、1941年夏に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)は当初、ドイツ軍と連携してソ連軍と戦ったが、戦争末期になると独ソ両軍と戦った。

連合国が完全に優勢となった1945年2月、ソ連のクリミア半島にある保養地ヤルタに、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まり、ヤルタ会談を開く。

この席上で戦後の国際秩序が話し合われ、3人の首脳は連合国を中心とした国際連合の設立と、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4国によるドイツの分割占領に合意した。

議論が難航したのが、前年のパーセンテージ協定に含まれなかったポーランドの問題だ。

戦前までのポーランドはイギリスに亡命政府を組織しており、ソ連がポーランド内で成立させた共産主義政権のいずれを正当な政府とするかで意見が対立していた。最終的に、ローズヴェルトの提案で戦後に国民投票を実施して決める妥協案にまとまった。

また、ポーランドの範囲は、カーゾン線と呼ばれる戦前の国境を変更し、東部地域をソ連に編入して、代わりに国土を丸ごと西に動かすことになった。

それから間もない1945年4月末、連合軍の侵攻によって、ドイツに支援されたイタリア・ファシスト党の残存勢力(イタリア社会共和国)は崩壊し、ムッソリーニはイタリア人のレジスタンス組織に殺害される。

ヨーロッパの西からドイツに侵攻した米英軍と、東からドイツに侵攻したソ連軍は、ドイツ東部のエルベ川流域でついに合流した。両軍の兵士は握手して平和を誓い合い、これは「エルベの誓い」と呼ばれる。

おそらく、最もアメリカとソ連が友好的だった瞬間だろう。ベルリンはソ連軍によってほぼ制圧され、ナチス総統ヒトラーは自殺して、5月8日にドイツは降伏する。

ヤルタ会談で結ばれたソ連参戦の「秘密協定」

ドイツ降伏後、連合国にとって残る敵は日本のみとなる。先のヤルタ会談では、ドイツが降伏した3カ月後にソ連も日本に宣戦する秘密協定が結ばれていた。

しかも、かつて日露戦争で日本がロシアから獲得した南樺太(サハリン)、旅順、大連ほかをロシアの継承国であるソ連に返還すること、千島列島をソ連に編入する(引き渡す)ことも合意されていた。

1945年4月、ソ連は1946年4月に満了になる日ソ中立条約の継続破棄を宣言した。条約にはあと1年間の有効期限があったので、日本では首相の鈴木貫太郎らが水面下でソ連を介して連合国との和平交渉を進めていた。

しかし、その期待は裏切られることになる。

 

 

連合国では4月にアメリカでローズヴェルトが急死し、副大統領だったトルーマンが大統領に就任、イギリスでは7月の総選挙で労働党が勝利し、チャーチルは退任してクレメント・アトリーが首相となるが、対日戦の方針は変わらなかった。

トルーマンとアトリー、そして蒋介石は7月にドイツのベルリン近郊にあるポツダムで会談し、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表した。

会談にはスターリンも参加していたが、日ソ中立条約がまだ有効だったので、ポツダム宣言には名を連ねていない。

日本側は、ポツダム宣言で降伏後の天皇の立場について明示されていないことから、回答を控えて黙殺の態度を採る。軍の上層部ではなおも徹底抗戦の意見が強かったが、8月6日には広島に原爆が投下され、甚大な被害が発生する。

続いて8月9日、ソ連が対日参戦し、長崎にも原爆が投下される。

ソ連は満州、南樺太、千島列島に侵攻してきた。満州に駐留する関東軍は、すでに大部分が南方に転出していたためほとんど無力で、60万人以上もの軍人や民間人が捕虜としてシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。

2発の原爆投下とソ連の参戦、いわば米ソの挟み撃ちによって日本はとどめを刺された。

南下を続けるソ連軍と、日本の「分割占領」の検討

政府は8月15日にポツダム宣言の受諾を発表し、終戦を受け入れる。

だが、ソ連軍による戦闘行為はこの後もしばらく続く。千島列島では、8月29日までにソ連軍が、北端の占守島から南端のウルップ島までの全域を占領した。

これに前後して、別の部隊が9月3日までに、北海道とすぐ接する択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島を占領する。現在まで日本政府が「北方領土」と呼んでいるのは、この択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島の4島だ。

ソ連は、「千島列島および歯舞群島、色丹島はソ連領である」と宣言し、1946年2月にはハバロフスク地方南サハリン州に編入した。

日本の降伏前には、ソ連、アメリカ、中華民国、イギリスの4国による日本の分割占領も検討されていた。

この構想では、北海道・東北地方はソ連、関東・中部地方と三重県、沖縄県を含む南西諸島はアメリカ、四国は中華民国、中国・九州地方はイギリスがそれぞれに単独で占領し、東京市(現在の東京都23区)は4国の共同管理、近畿地方と福井県はアメリカと中華民国の共同管理となる予定だった。

米ソ間で東欧と天秤にかけられた日本

ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4国による分割占領を受け、首都ベルリンは4国の共同管理とされた。

のちに米、英、仏の占領地はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地はドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、ベルリン市街のうち米、英、仏の占領地は、東ドイツ領内にある西ドイツの「飛び地」となる。

日本も分割占領を受けていれば、ドイツと同じ分断国家となった可能性があったのだ。

しかし、トルーマンは、アメリカが占領軍の最高司令官を任命して主導権を握りつつ、他国と協調する方針を決定する。この背景には、アメリカとソ連の潜在的な対立があった。

スターリンはこれに反発したが、1945年12月にモスクワで行なわれた米、英、ソの3国外相会議で、日本はアメリカ軍と少数の英連邦軍(オーストラリア軍、ニュージーランド軍など)が占領する代わりに、東欧はソ連の勢力圏とすることが決定した。

かくして長い大戦は終結したが、それは新たな戦いである米ソ冷戦の始まりも意味していた。

ソ連(ロシア)にとって、大祖国戦争と呼ばれた第2次世界大戦での勝利は、ファシズム勢力からヨーロッパを解放したという美名によって、ソ連崩壊後もロシアの国際的な正当性とナショナリズムを訴える材料に利用されることになる。

エジプト考古学者・吉村作治氏「今からエジプトに行きます」 81歳の執念にエール殺到「まだまだ現役」

スポーツニッポン新聞社

吉村作治氏のインスタグラム(@sakujiyoshimura)より

吉村作治氏のインスタグラム(@sakujiyoshimura)より© (C) スポーツニッポン新聞社

 考古学者で東日本国際大学総長の吉村作治氏(81)が1日までに、自身のSNSを更新。エジプトに向けて出発したことを伝えた。

 吉村氏は「今からエジプトに行きます。発掘の成果に期待してくださいね」とコメント。また動画で「こんにちわ、吉村作治です。今成田空港にいます。これからいよいよ行ってきます。それでは皆さん、東日本国際大学の未来創造基金をよろしくお願いします。ありがとうございます」とメッセージを伝えた。

 この投稿にフォロワーからは「車椅子に…知らなかった」「この前のクレイジージャーニー観て度肝抜かれた」「まだまだ現役なんですね」「応援しております」「頑張って」「お気をつけて」「期待してます!」などの声が集まった。

 

 吉村氏は1966年にアジア初のエジプト調査隊を組織し、発掘調査を始めてから半世紀以上にわたり調査・研究を続けている。今回は吉村氏が長年追い求めてきたという「クフ王の墓」につながる遺跡の発掘調査に番組が密着。最新の発掘現場では土器や装飾品などが次々と出土するなど大きな成果を得た。

 4月29日放送のTBS「クレイジージャーニー」(月曜後9・00)に出演した際、過去の発掘作業中に負傷し、現在も足に後遺症を抱えているため、発掘現場での作業に制限がかかるとし、「一番最初に(発掘現場に)入りたいけど、足が悪いから入れない。すごく悔しい」と胸中を吐露していた。

アメリカは嫌いではないが、しかし、バイデンとトランプの大統領選というのは、アメリカも情けない国になって来ているというか、世界のリーダーというアメリカ人の自尊心も無くなったようだ。トランプは特に宗で単なる自己もう余りもう余りアメリカもやばい。