先日、年上の友人と久しぶりに会いました。

実に7年ぶり

電話では年に数回話すけど、そんなに月日が経っていたのか…


地元にやっと帰って来れたみたいで、その貴重な1週間のうちの1日を私に空けてくれました。


久しぶりに会う友人は、相変わらずのハイブランド(私は常にプチプラ服)で身を固め、髪も肌も綺麗だしそんなに歳をとった印象もなかったけれど、話していくと以前のハイテンションさは失われ、覇気のような物はかなり少なくなっていた。

よく見ると、長年ハイヒールを愛していた彼女がローファーを履いていた。



じわりじわりと、紡ぎ出すように闘病生活で経験したことについて話してくれる。

いつもなら、私が考えている間にペラペラ喋ってくれるのだけれど、以前と比べてゆっくりと話してくれるから変な間が生まれてしまう。


退院後1年以上とは言え、まだまだ元通りとは行かず、病気前と比べ体力、記憶力、判断力が半減してしまったそうです。


私が運転し、ランチ先へ向かう間や食事中もずっと闘病生活の話を話してくれていた。

わたしもここ最近決して楽勝モードではなかったのだけれど、彼女の話の前ではどの話もこの話もちっぽけで、私の話なんてとても話す気にはなれない。


彼女がかかっていた病は、難病のなかでも症例が極めて少ない病気だそうで、手術費用は車で言うとクラウン1台分だそうだ。

私が〇百万円くらい?と聞くと、予想よりも更に②百万ほど多くかかっていた…。


二年前には余命半年と言われていたそうで、こうして生きて再会できているのが奇跡なのだけど、まだ完治ではないそう。

定期検診は必ず受けないといけない。


私はまさかと思っていたけれど、余命宣告されていたなんて初めて聞いたから、その事にやはりショックを隠せなかった。

実は知っていたのだけど、彼女に7年も会っていなかったから、ずっと現実の事として受け止めていなかったのかもしれない。


彼女は、同じ病の方のブログを見つけたとしても、しばらくするとブログが途絶えていて、最後は遺族の方の挨拶で締め括られているといった物を何件か見たそうだ。

そういうのを目の当たりにしながらも、彼女は精神力や生命力がかなり強いから

『絶対私は生き延びてやる!!』と心に誓っていたそうです。


生き延びるために具体的に何をしたのかと言うと、手術前から食事改善、増量とメンタルトレーニングをし、さらに調査会社のような所にこの病についてのデータを調べてもらい、あらゆる角度から想定外にも対応できる為に着々と準備していたのだった!


彼女の実家は割と裕福な為、手術費用も実家に出してもらえることになったそうです。

普段から会社に属せずフリーな仕事のため休業や、復帰後の仕事のセーブについても調整がききやすかったのが良かったそうです。

突然の不幸に見舞われながらも、完全に見捨てられたわけではなかった。


12時間にも渡る手術の後、直ぐに抗がん剤治療が始まる。それが普通の人にとってはかなり苦しいらしく、彼女はその苦しさについては特には言わなかったけど、体力的に持たずに治療途中で亡くなる人も居るらしい。

医療大麻で見える幻覚もすごかったと言っていました。


私は闘病生活の色々を聞いていくうちに、しばらく考えが停止していた。そして、余命宣告というワードがたまに頭をよぎる。


彼女は、闘病生活の話をしてくれる間にも計10回ほど「大丈夫よ!」と言っていて、普段は強い彼女が自分に何回も言い聞かせないといけないくらい弱気になってるんだな…と思ったけれど、

実はその話を聞いている私の顔が、とても不安そうな顔をしてたんだと後から気づいた。


最後の方でやっと私の話になり、最近人間関係で悩みがちで、人間不信になりかけていたことをサラッと話すと

「大丈夫、私がいるじゃん!」と言っていた。

この言葉はすごく大きかった。

彼女の友人達は彼氏も含め何故か孤独な人が多いようです。



私が彼女と別れたあと、しばらくして何を思ったかと言うと

壮絶な戦いに、実家の援助はあれど1人(暮らし)で立ち向かったんだなということと、私はその間に電話で話を聞いてあげたくらいで特に何もできなかった。


私は私で、数少ない友人の中でも一番仲の良い面白い人を、もう少しで失うところだったのだという事を考えました。


通常モードよりもかなり弱っている彼女に、今回私のヘタな運転で海を見せてあげられたことと(「寒い!!帰ろ!」と言われ滞在時間5分だったけど泣き笑い)、

普段は食べられるものをかなり厳選しているから、実家に帰っても食欲がなかったのに、地元で食事出来るお店を紹介出来たこと


少しは私も何かできたかもしれない。