めんどくさい生き方のための処世術

めんどくさい生き方のための処世術

動物と触れ合っていると心が癒されますよね?

Amebaでブログを始めよう!

Hello,everyone.How are you?

I'm fine,thank you.End you?

By the way,I have a sorry point.

It's a long stopping to write this blog.

But,hondai ni hairu mae ni little iiwake sasetekudasai,please.



まあ一応、英語圏の方にも配慮して、というよりはむしろ、グローバリゼーションを意識して、最初の方だけ英語で書いてみましたが、やはり母国語でないと私の本心のセンシティブな部分、いわゆるジャパニーズワビサビまで表現できないと思い至り、以下からは母国語で書いていくことをご了承ください。決して企画倒れというわけではありません。


このブログの更新停止はままあるのですが、さすがに2年間の更新停止は新記録といいますか、完全に失踪レベルかと思いましたので、捜索願が出される前に全世界向けに謝罪と生存報告をしようと思い立った次第です。

更新を停止していた理由は、単に面倒くさかったからというだけですが、更新停止1年後からはブログの存在すら失念しており、パソコンがIDとパスを記憶していなければ、ログインすらできなかったほどです。

まあなんといいますか、情熱というものは次第に薄れゆくものでして、期待の新人ブロリストの一人として一世を風靡していた私も、このブログ界を支えていくことに疲れ果て、ややもすると、あたかも黒歴史を葬り去るかの如くこのブログを自然消滅せんとする精神状態にあったことは否定できないわけです。

しかし、割と暇なこの時期に、このブログの存在を思い出し、このままではいけないと一念発起し、当ブログの更新を再開した次第です。



初心忘るべからず、初志貫徹、三つ子の魂百まで。

熟年カップルの倦怠感をもみほぐすには、ラブラブだったあの頃を思い出すのが一番なんです、多分。

初心を思い出すに、私がこのブログを始めたのは、暇なときになんか面白いことを書きたいという信念からでした。

そうです、ブログなんて暇なときに書けばいいんです。ブログの更新なんか二の次でいいんです。

初心にかえって分かる、今までの私は間違えていなかったと。



そうはいっても、文章を書かないとブログの更新停滞の言い訳のクオリティも徐々に下がっていってしまうので、出来るだけ更新頑張りたいと思います。

では、また1年後お会いしましょう。


Ps:司法試験合格しました。やったぜ!

天童荒太 著


天童作品4作目のレビューです。

物語の核心部分のネタばれは配慮しますが、一応ネタばれ注意です。


幼少期に虐待を受けた3人の少年少女、優希・生一郎・梁平。彼らは小児病棟で出会い、それぞれの虐待の秘密を共有し、さらに、ある事件をきっかけに特別な関係に至る。18年後、3人は運命の再開を果たすが、幼児虐待、幼児わいせつ事件へと巻き込まれ、それぞれの呪縛と直面する。

過去の呪縛に囚われた3人は、それにどのような決着をつけるのか。


あらすじはこんな感じです。

物語構成は、過去(幼少期)編、現代(大人)編が交互に展開され、過去の傷と現代の事件の真相が徐々に明かされる形になっています。

個人的には、いままで読んだ天童作品の中で、もっとも救われないエンドを迎えた作品ではないかと思いますね。


以下ではレビューと称して、思ったことを書きなぐっていこうと思います。『』内は登場人物の台詞の引用です。



我々は、いつかは親となり仔を育てるが、生まれたときから永遠の仔なのである。



この物語は、あらすじからも分かる通り、親から子への虐待を大きなテーマとしています。

虐待を含め、家族間の問題は簡単に一般化できるものではありません。この物語が描く虐待というものが、虐待の実態のすべてを形容しているものではないということは自覚しなければいけませんが、私が、今まで持っていた虐待に対する認識を改めなければならないと感じました。


私たちは虐待に対してどのようなイメージを持っているだろうか。親が子を虐待したという類いのニュースは、しばしば目にするが、それに対してどのようなイメージを抱くだろうか。



『自分が、子どもを虐待する母親だなんて、ばかげている。自分は娘を愛している、誰よりも愛している。子どもを虐待する親のことは、テレビや雑誌で見た。人間以下だと思ってきた。自分はあんな連中と同じじゃない。』


メディアは「親が子に暴力をふるった」という事実しか伝えないし、伝えることができない。情報を受け取る私たちは虐待した親に罵詈雑言をぶつけ、最低な親という烙印を押す。

しかし、そのような家庭にも家族愛はあり、幸せな日々があったはずである。虐待が起こるのは、その家族が異常だからであるという世間の常識が、私たちを油断させ、もしくは、抑圧する。いわゆる普通の家庭であっても、虐待の現場になりかねないということである。また、しつけと虐待の線引きは微妙であるのに、その扱いは天と地の差なのである。



『ときどきこの世界って、親が大人とはかぎらないってことを、忘れるみたいね。子どものままでも、親になれるんだから。……子育ては競争じゃない……未熟な親を責めるのは、間接的に子どもを叩いてるのと同じかもしれないのに』

『親は親なりに苦労してるんだから、完全でなんてあり得ないんだから、たとえ気に入らないところがあったとしても、多少のことは許してあげなきゃ。……親だって懸命だったんだから、わからないことだってあったんだから、間違えたとしても、許してあげなきゃ。』


親は完璧であることを世間から要求されている。そして、間違いを犯すと、親失格の烙印を押されてしまう。私よりも年下で親になる人はたくさんいる。親になったからといって、いきなり聖人君主に生まれ変わるわけではない。そのような世間からの重圧に耐えながら、子を育てていくというのは大変なストレスになるに違いない。重さに耐えきれなくなったものを責めるのではなく、重さを分かち合っていくことが大切なんじゃないのか。



『おまえはたまたま生まれたの。……わたしなりに、可愛がって育てようとしたんだよ。おまえが出てくるまで、しぬかと思うほど痛かったんだから。やっぱり可愛くなるよ。……おまえの世話だけじゃなく、あの男やババアの世話まで押し付けられて、じゃあ、わたしの人生は何?わたしだって、親から可愛がられて育ったんだよ。……わたしだって、少しはおまえの幸せを考えてるんだよ。』

『ばか野郎。なんだって、親のせいにしやがって。子どもが普通じゃないって言われた親の気持ちがてめえにわかんのか……こっちだって生きてるんだよ。必死に生きてるなかで、子どもを産んだんだ……そうそう都合よくいかないことだってあるさ。』


すべての責任を、虐待をおこなった親(片親)にかぶせることが非情な場合も少なくないのだろう。

それでも、子どもには何の罪もない、虐待は絶対悪だ、と思う人もいるだろう。しかし、虐待した親を責めても、世の中から虐待が減ることはないのではないかということを、私は投げかけたい。




今回はここまでです。まだ別に書きたいことがあるので、それは次回にまわそうと思います。

今回のレビューの印象だけだと『永遠の仔』は虐待した親を擁護する内容なのかと勘違いするかもしれませんが、決してそういうものばかりではありません。子の立場から、親を痛烈に批判する場面もあるので、そのあたりは次回に。

実際のところ、『永遠の仔』で描かれている虐待問題を、私自身もうまく整理できず、レビューを書こうか迷ったり、結論が出る問題でもないし、知らぬが仏なのかなと考えたり、あまり知人にはお勧めしない本だなとか思ったりしたんですが、考え続けることが大切であるという心情のもと、無理矢理まとめさせていただきました。

引用した台詞など、興味をひかれるものがありましたら、ぜひ読んでみてください。

私は、外見から読み取れるその人の人格なんてものはせいぜい3割程度であると考えている。


一方で、「人は見た目が9割」論を批判的に肯定もしている。それは、人は見た目で人格の9割を決めつけられるということである。


 個人的な交際レベルにおいて見た目を重要視するのは大いに構わないが、社会的なレベルにまでそれが持ち込まれるのは如何なものかと思う。




私たちは、自分の個性の9割を外見に徴表させていると言えるかと訊かれたら、その答えはNОであろう。むしろ、「人は見た目が9割」論が跋扈している現代においては、周りとの外見の違いを恐れ、限りなく周りと同じ格好をしようと努めていないだろうか。つまるところ、見た目とは今日、没個性的なのである。


だからこそ、周りと違う恰好をしていると、迫害を受けてしまうのかもしれないが、それはやはりいびつであろう。「人は見た目が9割」論は個性の抑圧を助長するものでしかないのではないか。




私は、表に出さないもの・表から読み取れないものこそが、その人の人格にとって大きなウエイトを占めると思う。大切な価値観は気軽に人に話すものではないし、そういうものは自分でもうまく表現できなかったり、自分でもきちんと理解しているかすら分からないからである。


自分のことすらよく分からないのに、他人のことを完全に理解しようとするのは愚かなことであると思う。ましてや見た目などで決めつけ、勝手に分かった気になるなど言語道断である。




私たちの社会は信用によって成り立つ社会である。そのため、他人が信用に値するか見極める簡単な方法を求めたがる気もわかる。しかし、見た目は簡単に変えられる。違う言い方をすれば、簡単に偽装できる。見た目からは人格者なのか詐欺師なのか判断できないのである。


したがって、個人の尊厳の観点からも、自己防衛の観点からも「人は見た目が9割」論を盲信するのは危険なのである。




結局、このような長ったらしい理論武装的前置きをして、何が言いたかったのかというと、私は、面接試験が大嫌いだということなのだろうか?受験シーズンのこの時期、私の勤める学習塾でも高校受験に向けた面接指導が行われているが、それを見ていて、どこかむしゃくしゃするので、この不満を書き連ねてやろうという趣旨のもであると思っているが、よく分からない。




私は、就活をしていないので、面接試験自体は数えるほどの経験しかないのだが(幸いなことに)、それを行う意味が見出せない。


面接試験とは、一般的には、「その人の人となりを見る試験」という認識であろう。しかし、私の持論は、面接試験とは「いかに人前で上手に嘘がつけるかという試験」である。


すべてがそうとは言わないが、「あなたの長所を教えてください」だとか、「志望動機は何ですか」といった質問をする面接は人を侮辱しているのではないかと憤りを感じてしまう。




自分の長所なんて、自分で判断するものでもないし、口に出すと妙に安っぽく感じてしまう。たとえば、「私の長所は優しいところです。休日にはよくボランティア活動に参加しています」なんて、答えるとしよう。それは、まるで面接試験のためにボランティア活動をやっていましたと言っているようで(実際、そうなら問題ないが)、偽善的で安っぽいものにはなりはしないだろうか。そして、その答えから、自分の長所が(ひいては自分というものが)歪曲的に推測されるのが苦痛でたまらないのだ。


自己分析を初対面の他人に語ったところで、どれだけ理解できるというのだ。


完全に余談だが、面接官に「あなたはわが社にどのような貢献ができますか」と問われて、返答に困った。面接の最後に、「最後に質問はありませんか」と言われたので、「あなたは御社にどのような貢献をしたと思いますか」と訊き返したところ、面接官も返答できなかった、という笑い話がある。面接官は質問をしっかり考えて行ってほしいものだ。




やたらと格式ばっているのも気に入らない。受験生が几帳面に角度を測ったような礼をしたり、「貴校は…」などと、普段絶対使わないちぐはぐな言葉遣いで話している姿を見ると、心が痛む。彼らは自分を殺し、そのような振る舞いをやらされているだけであり、やらせているのは我々大人なのだ。




だから、私は割り切って、面接試験とは、自分を隠し、面接官が期待する答えを言えるかといった試験であると認めた。実際、多くの人もそうかもしれない。しかし、割り切ったとは言っても、やはり自分のことで嘘をつくのは心苦しい。




上手くまとめる事は出来なかったけれども。


他人を理解するのは容易ではない。そして、完全に理解するのは不可能だ。人付き合いとはかくも難しいものであると再認識する今日この頃である。チャンチャン。