陰陽統合師・ヒトミです☯️
「自分を曝け出せ」
あなたはそう言われたら
どう感じますか
私はというと
仕事の性質上
「自己開示」がどれだけ
自分の可能性を引き出すかは
分かっているつもりだし
プライドが邪魔をして
振り幅を小さくすることや
物事の捉え方が偏ることも
分かっているつもりだけど
じゃあ
どんな姿も見せても良いよ
って言えるかといえば
そうではないなと思ってきました。
そんな中、ある体験の中で
その自分に向き合わざるを得ない出来事
があって
それを乗り越えた話があるので
今回はそのことについて
お話させていただこうと思います

その前後関係が分かるように
いつものように日記的な要素を含めて
起きたことを綴らせていただきます

そして
21・22・23・24日は
関東へ

今回の前半は
新プロジェクトのワーク開発
のための合宿
どんなことが始まるのだろう。。。
21日夜
白鳥のひしゃくさんと
あきひとさんと
トオルちゃんとで
晩御飯を食べながらミーティング

この時、次の日のワーク開発のための
お題として、私たち夫婦の
「あの時、こうしていたら良かった」
と感じる一番の記憶を話しておいて下さいとのこと
これが実はまぁまぁ辛かった・・
思い出したくもない思い出に触れることが
とても苦しくてウゲーッてなりました
22日
この日はワーク開発日
朝からまずは三嶋大社に行ってから
ホテルから見えた富士山
三嶋大社のご祭神は
事代主
恵比寿様
また事代主がきたーーー
白い羽根、大量発見
そして、この後
本格的にワーク開発へ
まずは私たち夫婦が
このワークの体験をしてみるというもの
それが・・
私たち夫婦の今までの軌跡を
辿るものとなりました
出会った時の再現や
最近のいざこざの再現などを通して
色んなことを感じたのだけど
その中で、自分たちですら
気づいていない潜在的な行動や
言動がかなりの領域において
影響していたことが分かったり

すごく面白かったです

ワーク後も、色んな打ち合わせをしてたのですが
実は、このワークの途中で
私の中で凄く辛い出来事が
ありました

ウチの夫婦のエピソードは
ちょっと稀有で激しいエピソードが多く
決して、ただただ仲睦まじいという
まぁ、でも
それはこのブログでも語ってきたし
全然隠してきたつもりはないのだけど

ただ
「あなた達は夫婦として
問題ありありです」
「問題児の優等生として
自分を曝け出すことが
見ている人へのギフトです
」
というようなニュアンスの言葉があって
カリスマ的で
理想的な夫婦として活動して
周りに憧れられるような人も
沢山いる中で
私はというと
ある意味「恥部」というような部分を
見せることが役割だと言われた気がして
それが嫌で嫌で
自分自身がそういうことで貢献することを
選んで生まれてきたのだとしたら
私の中で「汚れ役」を
買って出なければいけないと
私のコンプレックスは
綺麗になれないこと
なのに、それを強く強く
「あなたは綺麗担当ではないんですよ」
と烙印・レッテルを
押された気がしてしまったんです

誤解があるといけないので
補足しておきますが
そう捉えたのは
あくまで私です。
私が
「私は汚れ担当と言われた」と
感じてしまったというだけ。
だけど、こういう思い込みって
多かれ少なかれ
誰しもが抱えているもの
私にとっては、その部分が
琴線に触れる部分だったということ
でもこれ、本当に辛かったんです
ワークが終わり
皆と別れてからも
その部分は解消されず・・・
その後、東京へ向かう予定だった私たちは
高速のサービスエリアで
おでんを食べながらボロボロと泣いて
「どうして私はそんな運命で生まれてきてしまったのか・・」
「どうして綺麗担当に生まれてこれなかったのか・・・」
これ、解消出来るんかな・・・
って、半ば諦めていたくらい・・・
ちなみに、このサービスエリアに
富士山と家康公のことが書いてあって
キーワードがシンクロしててクスリ

束の間の笑いwww
ただ・・
結局、そこでは解決もせず
半分、心ここにあらずな状態で
東京のネオン街を眺めていると。。。
私にとって
アハ体験があったのです

私、高校の頃、椎名林檎とかCoccoが好きでした。
椎名林檎の曲って
東京を題材にしたものが多くて
その大都会の中の有象無象な様子や
愛憎劇の中に見出す美しさを表現していて
それがなんとも言えない
芸術になっているということを
思い出しました

岡崎京子・安野モヨコの描く世界観とか
AKIRAの世界とか
香港の九龍城とか
人間の闇の部分
人間の何気ない日常の中の
ノスタルジックさ
そのなんとも言えない
刹那的な美しさに
芸術性を見出していたことを
思い出したのです。
そういえば私
10代の人生も波瀾万丈だったけど
なぜだか凄く
自分の人生に誇りすら持っていて
その理由が何か分からなかったのだけど
そういえば自分の人生に芸術性を
見出せていたんだって思い出したのです

椎名林檎の曲って
日本語も綺麗で
エモいんですよね

そうか・・
私が受け入れられないと思い続けてきた
醜い部分を芸術に変える
するとたちまち
同じ事象の見え方が大きく変わる

と一気にワクワクし始めたのです

私の今回の抵抗は
「恥部を見せる」ということへの
抵抗ではあったのだけど
ただ「見せるのが嫌」ということではなく
「問題児としての自分」
「本当はこうありたい自分の真逆が《あなた》ですよ」
と、ある意味、烙印・レッテルを
貼り続けることになるという
苦しみからくるものでした

今まで、別に2人の関係性を隠してきた訳ではないし
どちらかというとオープンにはしてきたけど
改めて「問題だらけ」という認識をすることが
自己否定という形で出て苦しかったのだと気づきました。
椎名林檎が表現するような人間の愛憎を
アートにするということの
面白み&美しさを表現出来たら
私は自分の体験を昇華できる。と思いました。
ドロドロを《そのまま出すこと》が
私にとっては
【呪い】でした

だけど、それを《アート》に変える。
すると、たちまち
【呪い】が【祝い】に変わり
《昇華》される。
私にとっての[出し惜しみ]のない[体験]は
いかに芸術にするか。でした。
いかにエンタメにするか
この価値観の転換をしてから、視点が変わり
「どう表現しようか✨」
と思えるようになりました。
これから、来てくださる方にも
人生を芸術作品に昇華してほしい。
その体験を先にさせていただいたと感じるし
たしかに、私達が先に
体験しなければいけなかったと思います。
そこからは世界が変わって
面白かったです
その後も東京の街を歩いていると
色んなアートに触れました
また七福神だ
あとね。
東京のホテルでテレビつけたら
シド・ヴィジャスとナンシーの
映画やってたんだけど
(70年代のロックバンドのベーシストのシドと
恋人ナンシーとの破滅的な生き方が
伝説となった二人の物語)
シドとナンシーの激しさ
カオス具合を見て
「私たち、これに比べたら全然大丈夫やん
」
「こんなに激しくて伝説になってるんやし
私たちの物語くらいなんてことないやん
」
って思えました
椎名林檎の「幸福論」の中にも
「シド・ヴィシャス」の名前出てくるしね
そういう意味ですごい神計らい
いやはや・・
この体験をしておけて良かった
そして、これからの方向性も
はっきりしました

現代を生きる私たちは
日々、様々な情報に触れています。
そして、その表に出ている情報に振り回され
自分の中の正解が無意識に固まって
その「正解を生きている他人」を羨み
「不正解な自分」を無意識に責め
そのレッテルの中で自分を苦しめています
SNS疲れも結局そういうこと。
だけど、今回の体験を通して
自分の人生を芸術作品に変える
面白みに出会いました。
唯一無二の自分という芸術
「綺麗」の定義とは
何もないことが綺麗ではなく
自分の体験したあらゆる出来事が
自分の旨味になりギフトになる
そう転換出来ると
人生は大きく動き出します
私たちが勝手に自分につけてるレッテルを
自分自身が剥がしてあげれるようになること
これは捉え方の転換が起きなければ出来ないこと
自分の扱い方は自分で決められる
だけど、自分の見えない部分を
教えてくれる存在も大事
では、その見えない部分を見た時に
自分がどうそれを昇華するかは
それは自分の中に答えがあるし
それを表現することこそが
「自己表現」
そして、そこに
出し惜しみしない
限界を決めない
自分を信じる
これこそが私たちの「命の祭り」
面白くなってきましたよーーー
楽しみです
それでは
今日も素敵な1日を
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