派遣村バッシングの死角 - 自分とは違う「溜め」のない人へダイレクトに突き刺さる痛みが見えない | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 雑誌『ロスジェネ』第2号(かもがわ出版) に、湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)と浅尾大輔さん(作家・ロスジェネ編集長)の対談「生存/労働運動のリアリズムはどこにあるのか?」が掲載されています。


 対談の中で、湯浅さんは、単にお金がないという「貧乏」と、反貧困ネットワークがなくしたいと思っている「貧困」とは違っていて、「貧困」とは、金銭的な「溜め」、人間関係の「溜め」、精神的な「溜め」が全体として失われていることだと指摘しています。そして、「溜め」について、次のように語っています。


 湯浅 「溜め」というのは、ため池の「溜め」、あの字ですね。私が「溜め」という言葉で表現したかったものは、自分を包んでくれている「クッション」みたいなものだと思ってくれればいいです。それは目には見えないけど、実は、誰にも自分を包んでくれるクッションがあって、ただそれは、クッションの大きい人と小さい人がいるんだということなんですね。例えば、国会の2世議員みたいなのは、つまり、ものすごい資産を持った家に生まれて、政治家の父親の人脈も豊かなものがあって、前途洋々、自信満々で生きてきたと。


 浅尾 なるほど。


 湯浅 こういう人の場合は、お金の「溜め」--経済的な「溜め」もあるし、人間関係の「溜め」--コネクションもいっぱい持っているし、自信もある。だけど彼らの反対側には、逆に「溜め」の小さい人がいて、彼らはお金を持っていないし、頼れる人もすぐには思いつかない。(中略)お金や人間関係の「溜め」がなくなると、やがて、孤立して追いつめられていく。そうなると精神的な「溜め」もなくなる。(中略)


 問題は、その「溜め」がいっぱいある人は、なかなか自分の「溜め」というものを自覚しない。やっぱりこれはある程度しょうがない面もあると思いますけど、誰だって自分が頑張ってやってきたと思いたいから。


 浅尾 いまある自分は、自分の力だけで勝ち取ってきたものだと…。(中略)


 湯浅 だけど、そういう「溜め」を自覚しないと、自分とは全然ちがう「溜め」の人たちに対して「お前だって努力すれば何とでもなるはずなんだ」「だって、俺はそうやって来たんだもん」みたいなことを平気で言っちゃう。(中略)私は、それはもう、ほとんど言葉の暴力だろうと。(中略)


 「溜め」が小さいということは、一つのトラブルに遭遇したときに、すぐにそのまま自分の身体に突き刺さっちゃう。「溜め」というクッションが吸収してくれないから。


 浅尾 ダイレクトに突き刺さる。(※このあと、「溜め」のある正社員は風邪で1週間休んでも普通は平気だが、「溜め」の小さな非正規社員の場合、風邪で休む→解雇→家賃滞納→住居を失う→ネットカフェ難民や路上生活、という事例も少なくないことが語られています)


 湯浅さんが語っている、人それぞれで違っている「溜め」を見ることが大切だという指摘は、「年越し派遣村」の人たちや、「派遣切り」「非正規切り」にあって路頭に迷う人たちへの視点として重要だと思います。


 きょうの『東京新聞』で、「昨年11月から今年6月までの8カ月間で、170万人の雇用者が削減される可能性がある」(大和総研・渡辺浩志エコノミスト)と報道されています。仕事を失う170万人のうち、人間関係の面などで「溜め」のある人は、家族に支えられて路頭に迷わずにすむ人もいるでしょう。しかし、「溜め」の小さい人には、今回の事態がそのまま自分の身体に突き刺さってしまうことになります。対談の中でも紹介されていますが、厚生労働省による「ネットカフェ調査」(2007年)では、「困ったとき、悩んだときに相談できる人がいるか」という設問に「親」と答えた人がたったの2%で、「誰もいない」と答えた人が42%にものぼっているのです。


 「年越し派遣村」をバッシングする人や、貧困を自己責任として当事者を批判する人の視点に大きく欠けているのは、自分とは違う「溜め」のない人へダイレクトに突き刺さる痛みがまったく見えていないということではないでしょうか。


(byノックオン ※追伸〈内輪話〉 じつは、浅尾編集長から『ロスジェネ』第2号の編集を手伝ってくれないかというSOSが私にあったのですが、ちょうど間が悪く仕事がつまっているときで、手伝えませんでした。とても残念だったのです)