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 ①  異種格闘技路線 

 

 1976年、日本マット界の両巨頭だった馬場と猪木の目指す道ははっきりと別れた。馬場が純粋なプロレスを守ったのに対し、猪木は異種格闘技戦の路線を突っ走り始めたのだ。前年、猪木はプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリに挑戦状を叩きつけていた。これに対しアリ本人は「猪木なんてレスラーは名前すら知らなかったが相手になる。レスリングで勝負してやる。」とコメントを残すも、現役ボクシング王者が日本人レスラーと戦うなど誰も信用せず、周囲の反応は冷ややかであった。猪木と営業の新間寿は世界中のマスコミに"アリは猪木から逃げている"とリリースした。すると意外なところから反応が返ってくる。西ドイツの雑誌で猪木のコメントを見たオリンピック柔道金メダリスト、ウィリエム・ルスカが「アリの前に俺と戦うべきだ」と名乗りを挙げたのである。(※一説には新日本からのアプローチだったとも言われるが)ルスカの挑戦に猪木も「プロレスが格闘競技の王者であることを見せるために挑戦を受けました」と対戦を受諾した。

 

 1976年2月6日、日本武道館でアントニオ猪木vsウィリエム・ルスカ"格闘技世界一決定戦"が開催される。柔道仕込みの投げ技と絞め技に猪木は大苦戦を強いられるものの、打撃技で形勢を逆転させた猪木がドロップキックからのバックドロップ3連発。セコンドのクリス・ドールマンがタオルを投げて猪木がTKO勝利。この一戦は、新日本にとってはアリ戦実現に向ける絶好のアピールとなり、ルスカにとっても多額のファイトマネーが得られる双方にとって利益があるものであった。また今、猪木vsルスカ戦を見返した際に評価に値する点は、プロレス未経験の相手でもそれなりの好勝負を繰り広げられる猪木のセンスに尽きる。「猪木ならばホウキと戦っても観客を沸かせることができるだろう」これはゴッチ門下の兄弟子にあたるヒロ・マツダの評だ。前年のビル・ロビンソン戦を境に猪木のプロレスラーとしてのピークは終わったとも言われるが、試合の組み立て方や観客の心理操作の点で彼は生涯を通じて天才だった。

 

ウィリエム・ルスカ(1940年〜2015年)

ミュンヘン五輪で重量級・無差別級の2階級を制したオランダの柔道王。白い肌が硬直すると真っ赤になることから"赤鬼"と異名が付いた。猪木との異種格闘技線の後、プロレスラーに転身するも、自分の強さを誇示することだけに徹し、観客を盛り上げる配慮を身につけることができなかった。

 

 ②  猪木vsアリ 

 

 3月25日、ニューヨークで正式にボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリと猪木の調印式が行われた。アリに支払うファイトマネーは610万ドル(18億3000万円)と発表。史上最強のボクサーと称される世界的スーパースターが、本当に極東のプロレスラーと対戦するとは誰も信じていなかったので記者たちは大いに驚いた。アリが猪木を「ペリカン野郎」と侮辱すると「アリとは日本語で虫けらを表す言葉だ」と応酬。一触即発の事態となった。ただし、この時点でアリ側は試合をあくまでエキシビジョンマッチと認識していた。6月20日、来日したアリが猪木のスパーリングを目撃。ようやくエキシビジョンマッチではないことに気づいたアリ側は突如試合のキャンセルを要求。今更中止にできない新日サイドはどんなルールでも構わないから試合をしてほしいと懇願し、最終的にほとんどのプロレス技が禁止される不条理極まるルールに決定してしまう。

 

 1976年6月26日、日本武道館にてアントニオ猪木vsモハメド・アリの"格闘技世界一決定戦"が開催。リングサイドの30万円のチケットも完売。まさに世紀の一戦がここに実現した。しかし、試合はプロレス技を禁止された猪木がスライディングキックを繰り返す展開に終始。本格的な動きがないまま15ラウンド引き分けに終わり、翌日のスポーツ新聞で"世紀の大凡戦"あるいは"世紀の茶番劇"と大バッシングを受ける。翌々日に猪木は記者会見を開き「日本のマスコミはレベルが低い、あれは名勝負だ」と怒りの反論。史上最強のボクサーにリアルファイトを挑み散々に痛めつけた偉業を誰も理解してくれない現実に、猪木は絶望した。しかしながら今現在、後年に誕生した総合格闘技の攻防と照らし合わせると、猪木の戦略は実に理にかなっていたとして再評価される動きがある。またキックを受け続けたアリは、この後入退院を繰り返すほどに足のダメージを抱えてしまい、現役生活に影響をきたすことになった。

 


 ③  多額の借金 

 

 "世紀の大凡戦"の失敗により、新日本プロレスの人気はガタ落ちとなる。視聴率も観客動員も激減。また、アリ戦を実現させた負債として9億円という借金が残り、責任を取る形で猪木は社長から会長職に棚上げされ、新間は平社員に降格させられた。借金を完済するまでは新日本プロレスはNETの管理下に置かれることになったのである。10月7日、猪木がアンドレ・ザ・ジャイアントと"格闘技世界一決定戦"を行い勝利。プロレスラー同士の対戦だがこの"格闘技〜戦"の枠に入れると"水曜スペシャル”という番組で放映されるため、ワールドプロレスリングの中継とは別に放映料が入った。これはアリ戦で多額の負債を抱えた猪木にとって非常に有難いことで、以降の格闘技世界一決定戦は実のところ借金返済のためのイベントであったと言える。12月9日にはウィリエム・ルスカと再戦を行い、これも勝利。

 

 12月12日、パキスタンに遠征した猪木は現地の英雄アクラム・ペールワンと対戦。情報が皆無の危険な国での一戦だったが、入国後にペールワン一族からショーではないセメントマッチであることを通告される。イスラム圏で英雄であるモハメド・アリに引き分けた猪木に勝って名声を轟かせるのが彼らの目的であった。まさに猪木がアリに仕掛けたことを逆にやられた形。しかし猪木はリングで組み合った瞬間、道場でゴッチ直伝のスパーリングを行っていた自分の相手ではないことを察知。3Rにチキンウイング・アームロックで左腕をへし折ってTKO勝利。観客の暴徒化が懸念されたが、猪木が両腕を挙げた勝利アピールが偶然にも神に祈りを捧げたと認識され沈静化されたとの説がある。年始のルスカ戦に始まり、アリとの真剣勝負を経て、パキスタンでのセメントマッチ、この年の新日本プロレスはまさに猪木の異種格闘技戦が全ての話題を持っていった1年だった。

 

 

 ④  馬場のプロレス道 

 

 我が道を行く猪木の新日本とは違って、ジャイアント馬場は従来のプロレスを行う。前年末、新日本で猪木と名勝負をしたビル・ロビンソンは7月より全日本に参戦。7月24日、蔵前国技館でジャイアント馬場vsビル・ロビンソンのPWFヘビー級王座戦が組まれた。ジャンピング・ネックブリーカーを決めて2-1で馬場が勝利した。猪木が引き分けた相手に完勝することで、馬場の上位を示すも「内容に乏しい」という厳しい指摘が多かったのが事実。現代と違って当時は試合内容より勝負論が重要視されたものの、猪木vsロビンソンの再戦を望むファンの声が多数派だった。しかし、アリ戦の実現に全てを費やした新日本には大物外国人と長期契約ができる財政的余裕は一切無く、ロビンソンは以降も全日の常連レスラーとなりジャンボ鶴田のライバルとして活動した。

 

 ジャンボ鶴田と言えば、"試練の十番勝負"という企画がデビュー3年目のこの年からスタート。3月10日の"AWAの帝王"バーン・ガニア戦を皮切りに、現NWA世界王者テリー・ファンク、ビル・ロビンソン、ボボ・ブラジル、アブドーラ・ザ・ブッチャーら名レスラーとの闘いを繰り広げた。十番勝負2戦目の国際プロレスのエース、ラッシャー木村との一戦はプロレス大賞年間ベストバウトを受賞する。8月28日の日大講堂大会では、旧日本プロレスで猪木が巻いたUN王座が全日本プロレスで復活。鶴田が王者となり、全日本では馬場のPWF王座に次ぐタイトルに位置づけられた。10月15日には大相撲前頭筆頭の天龍源一郎の全日本入団が報じられる。豪華外国人を招聘しつつも新たな日本人エースの誕生も模索する姿勢を見せた。プロレス最強論を提唱し異種格闘技路線を進む新日本・猪木が"過激なプロレス"と称された一方、全日本・馬場は本道を守り後に言われる"王道プロレス"を確立していくのである。