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 ①  新日本のNWA加盟 

 

 NWA(National Wrestling Alliance=全米レスリング同盟)を巡る全日本プロレスと新日本プロレスの政治抗争劇は、70年代前半の日本プロレス史におけるメインテーマである。1972年、全日本プロレスを設立した馬場は、翌年あっさりとNWAの加盟が承認されて正式メンバーになった。対して新日本の猪木も73〜74年の2年に渡り申請をするも相次いで却下されている。これは馬場と親密な関係にあったプロモーター、ドリー・ファンク・ジュニアやフリッツ・フォン・エリックらの働きによるものだったとされる。NWAとは一言でプロモーターのカルテルである。NWAに所属していない団体に対しては興行を打てないよう圧力をかける。自由競争を阻害し、新規参入を阻む極めて排他的組織だった。日本のプロレス界を統治するのは馬場の全日本であるべきで、新日本のような異物は存在すべきでない。それが有力プロモーターたちの総意であったが、猪木はそれに抗い続けた。

 

 1975年8月、ルイジアナ州ニューオーリンズで行われたNWA年次総会で「条件付き」で新日本プロレスの加盟が認められる。新日本・猪木の名義ではなく、坂口征二と新間寿の連名による個人加盟だったこと、年度中のNWA世界ヘビー級タイトルマッチは全日本に限られること、レスラーの奪い合いをNWAメンバーとしないことなどが条件であった。結果論になるが、加盟後も新日本に来る外国人の顔ぶれは変わることもなく、その後NWAヘビー級王者が新日本のリングに上がることはなかった。翌年から猪木は異種格闘技路線(vsモハメド・アリ)に照準を合わせる。馬場とはまったく異なる道を歩み始めることで、全日本vs新日本の日本マット覇権を巡る政治裏の抗争は75年で一旦の終息を迎えることとなるが、この年の暮れ、力道山の十三回忌となる12.11興行戦争において一連の抗争史最後のピークを迎えようとしていた。

 

 ②  オープン選手権開幕 

 

 1975年12月6日、全日本プロレスで"史上空前 栄光の争覇戦"と銘打たれたオープン選手権が開幕。参加メンバーは、元NWAヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニア、同じく元NWA王者ハーリー・レイスとパット・オコーナー、その他アブドーラ・ザ・ブッチャー、ダスティ・ローデス、ディック・マードック、ヒロ・マツダら総勢11人の各種米国チャンピオン経験者が集結。フリッツ・フォン・エリックをして「馬場、ユーはアメリカマットを空っぽにする気か?」と本気で言ったという。ヨーロッパからは欧州ヘビー級王者ホースト・ホフマンが参加。迎え討つ全日本プロレスの参加者は、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、東京五輪柔道金メダリストアントン・ヘーシンクの4名。"オープン"を題してるように、国際プロレスからもラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参戦。旧日本プロレスの大木金太郎も名を連ねた。

 

 

 計20名の史上空前のメンバー。団体設立以来、何度も馬場を挑戦し続けた新日本アントニオ猪木に対しても門戸を開く意思表示も込めた"オープン"選手権だったが結局、新日本からの参戦はなかった。もしも猪木が参戦した場合に備えてディック・マードックやホースト・ホフマン、ハーリー・レイスらセメントに強い選手を用意したとも言われている。大会は2週間の日程的に総当たり戦は不可であり"大相撲の番付制"による独自のシステムを採用。8戦を経過した段階で勝ち点11点の馬場が優勝、10点のドリーが準優勝となったが、そもそも8戦を消化した選手が10人しかおらず、他の10人は途中棄権で帰国してしまった。なんともお粗末な結果となったが、さすがに豪華メンバーを揃えただけあって観客動員は好調、暮れの興行は当たらないという従来のジンクスを吹き飛ばした。


 ③  不朽の名勝負 

 

 オープン選手権開催中の12月11日、百田家主催による力道山十三回忌追悼特別試合が日本武道館で開催され、全日本と国際の全選手、オープン選手権で来日中の外国人が総出場する。ところが同日、新日本プロレスは同時刻に蔵前国技館で大会を開催。12.11興行戦争と言われ話題を呼んだ。これに先立つ11月8日、百田家の記者会見で「今後は力道山の弟子を名乗ってほしくない」という力道山未亡人・百田敬子夫人からの破門状が公表されたが、猪木は「いい試合をやることが力道山の供養になる」とコメント。日本武道館には1万4500人の観衆が集まり、蔵前国技館も1万2000人という超満員を記録した。

 

 新日本蔵前大会のメインにはアントニオ猪木vsビル・ロビンソンのNWFヘビー級タイトルマッチが組まれたが、この試合は不朽の名勝負と言われ今もファンに語り継がれる試合とされている。"人間風車"と言われ国際プロレスで活躍した強豪ロビンソンは、カール・ゴッチからのオファーで新日参戦を決めた。試合は3本勝負でそれぞれが1本ずつ取った後60分の時間切れに終わったが、一進一退の攻防に大観衆が総立ちの好試合となり、立会人を務めたルー・テーズをして「今世紀最高の試合」と言わしめた。この試合はロビンソンの技術に圧倒される猪木がそれでも主導権を取り戻そうと必死に抵抗する姿が印象深い。前年のストロング小林戦や大木金太郎戦も名勝負であったが、その時は猪木は終始相手をコントロールし観客にアピール姿も見受けられたのに対し、ロビンソン戦ではそんな余裕など欠片もない。愚直に前に出続けるもロビンソンの切り返しに跳ね返される展開が続いた。猪木自身は後年、この試合のことを一切語らず、生涯のベスト試合は日本プロレス時代のドリー・ファンク・ジュニア戦と回答している。いかに世間に評価されようとも、自分が主導権を握れなかったロビンソン戦は納得できるものではなかったと思ってるのかもしれない。プロレスには勝敗を超えた闘いがあることを改めて感じさせる一戦であった。

 

 

 12.11興行戦争に関しては、今も語り継がれるロビンソン戦とは対称的に、全日本の力道山追悼興行が話題になることはほとんどない。微妙な大会に終わったオープン選手権といい、莫大な人件費をかけた全日本の猪木潰しが成功したとは言い難いだろう。いずれにせよ両団体の設立以来の抗争はこの日を境にトーンダウン。猪木はボクシング世界王者モハメド・アリ戦の実現に全てを注ぎ込んでゆくのである。