ある日、ニニキネさまが、筑紫へ行幸される(注2)という知らせがはいりました。
「筑紫。お母さまといっしょにながされた、あのくらく、さびしい、思い出の地」
つらいきおくがよみがえり、タナコさまは目をふせて、胸をおさえました。
その筑紫へ、さんなんぼうのウサツヒコさまがご同行することになり、タナコさまは、あるけっしんをしました。
ことりたちが、ピチュピチュとさえずるすがすがしい朝、イフキヌシさまが、よくみのった橘に目をほそめていると、タナコさまが、しずしずと近づいてきました。
「ことしは、橘もよくそだっておりますね」
タナコさまが、イフキヌシさまに声をかけました。
「うむ。日のひかりを、じゅうにぶんにうけたからな」
イフキヌシさまが、まんぞくそうにこたえました。
イフキヌシさまといっしょに、お日さまのようにかがやく橘を、まぶしそうに見つめると、タナコさまは、思いきってきりだしました。
「ニニキネさまが、筑紫へ行幸されるそうですね」
「ああ。いよいよ、筑紫でも、水田かいはつに力をいれられるようだ」
「子どものころ、わたくしがおりましたころは、まだ、とてもさびしいばしょでした。とくに、わたくしたちが送られた山のなかは」
「そうであろう」
イフキヌシさまが、いたわるようにいいました。
「あのころのことは、今でもわたくしの心に、かげをおとしております」
「うむ」
「オロチにとりつかれた母に、あなたたちのことなど、どうでもいいといわれたこと。そして、その母のために、お国に大きなそうどうがおきてしまったこと」
「・・・・・・」
「わたくしは、そのいまわしい記憶を、あたたかなものに変えたいのです。ウサツヒコとともに、ニニキネさまにご同行させていただくことを、おゆるしいただけますでしょうか」
とつぜんのタナコさまのもうしでに、イフキヌシさまは、おどろいた顔をされました。
けれど、タナコさまのしんけんなまなざしを見ると、しぜんにうなずいていらっしゃいました。
「それで、タナコのきもちがはれるなら、いってくるといい」
「ありがとうございます」
タナコさまは、イフキヌシさまに、ふかぶかと頭をさげられました。
注2)筑紫は、げんざいの九州。行幸(みゆき)とは、アマカミさま(天皇)がおでかけされること。
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