父の逝去 | 苔さんぽ

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水金地火木どってん苔丸

退院してわずか翌日に、父が私の家で亡くなりました。

私は最期に間に合わなかったけど、妹は看取ることが出来ました。それはそれで辛いだろうけど。

病院に納得できないことは多々あります。

医療制度への怒りもあります。

でも最期に、無機的な病院でなく、慣れ親しんだ実家でもなく私の家ではあったけど、肉親に見守られて逝ったのは幸せでもあったかなと思います。

 

父とは何十年も離れて暮らし、お互いがそれぞれ好きなように生きてきたので、私の家に連れてきて介護した数か月は正直いろんな葛藤が私にはありました。

でも、休みの日に父の朝食を作り、風呂に入れて頭や体を洗ったりした思い出は鮮明に記憶に焼き付いてます。

こんなに濃厚な距離になったのは、私が子どもの時以来でした。

 

 

戸籍謄本を見ると、父は満洲国新京生まれとありました。

当時、満州開拓で中国に渡った大勢の日本人の1ケースだったんでしょう。

敗戦後、祖母は幼い父や叔母叔父の手を引き必死の思いで内地に帰ってきたそうです。

一歩間違えば、父は中国残留孤児になっていたかもしれません。

そうしたら今の私もいなかったでしょう。

 

祖父は反戦思想で特高に捕まったこともあると聞き、その後召集されソ連軍と戦い、捕虜となりシベリアに送られたそうです。

戦後、なんとか復員して祖母と再会し家族を再興しました。

「人間の條件」の小説・映画で読み視聴したシベリア抑留の過酷さを知るにつけ、よく無事に生きて帰れたと思わずにはいられません。

 

父も激動の戦後を生きてきたんでしょう。

家は貧しく、成績優秀だったそうですが進学できず紆余曲折の末、商工団体職員としてほんの数年前まで働いていました。

 

あまり父と遊んだ記憶はなく、寡黙で酒も飲まず仕事一筋の人でした。

 

ですが、広島カープ好きは父の影響です爆  笑

 

介護するようになって、父は私や妹が小さかった時の夢をよく見ると言ってたそうです。

私が3歳の時、父が仕事に出かけたあとを三輪車で追っかけて、迷子になり捜索届けを出した事件がありました。

私自身、断片的に今も覚えていて、踏切の近くで泣いていたこと、優しいおじさんが「坊やどうしたんだい?」と声をかけて交番に連れて行ってくれたことを覚えています。

 

父はそのことを介護ベッドに寝ながら懐かしそうに妹に言ってたそうです。

「あの頃は可愛かったよな」

父は笑ってたそうです。

 

 

もう呼吸が苦しくなることもないね

 

好きなものを好きなだけ食べられるね

 

安らかにね、お父さん