「 映画と映るもの:終わり:終わりは二度死ぬ 」 の続きです。

 

鈴木雅之監督『本能寺ホテル』(2017年)はテレビ局製作の映画らしくうら若いヒロインが婚約者に押し流されるように結婚へと向かいながら何か形にならないもやもやとしたものを抱えている(いや本人はそんなものを抱えていることすらいまは気づいていない)そんな冒頭です。ところが彼女が泊まるホテルのエレベーターがあろうことか京のいにしえに繋がっていて突然開ける寺院の、静まり返った緊張にヒロインは迷い込みます。よりにもよってそこは本能寺の変の前日、しかもその寺院こそ本能寺という(ヒロインにもそしてこの変に呑み込まれるひとたちにも)やがて困難が迫り上がってくるチャーミングな設定です。喜劇の躍動感で語られていきますが翌朝には歴史的な謀反が待ち受けているんですから否が応でもヒロインに自分の生きざまを突きつけることになります。脚本も爽やかな手並みでこういうタイムトリップの物語では避けては通れない<歴史を変える逡巡>もあっさりと飛び越え(何せヒロインは事の重大さにあまり引きずられることなくあっけらかんと織田信長に明智光秀の謀反を知らせてしまうので... )知ってなお謀反に倒れる自分の運命を受け入れる信長の心情も説得力を以て語られて歴史が新たな風に繰られていきながら定められたところに手に手を重ねるように信長と家臣たちが身を沈めていく姿は胸を打たれます。この深い喪失に促されるように(いやあ死してなお志に翻えるような信長に導かれて)ヒロインは手で覆ってばかりいた自分の心に向かい合います。婚約者は実は気のいい青年ですが彼は彼でヒロインの弱さを庇うあまり独りよがりに引っ張っていた自分に思い至ります。広がった物語の羽根がやさしく撓められていって最後に(それまで狂言廻しであった)ホテルの支配人が決めのひと言で奇想天外だったこの物語を〆るとドアの向こうに待っている新しい人生の光へとヒロインを送り出してこの映画は終わり... ではないんです。物語の結構はすべてついています。しかるにホテルを出るヒロインは鴨川沿いを歩いて短くはない終わりのそのあとをキャメラは追っていきます。(まあ実物の信長に会ったんですから気持ちはわからなくはありませんが)俄然歴史の教員になる決意を披露すると何とも蛇足の気がするのは信長までが彼女の傍らで現代の鴨川に座り挙句に物語を締めくくったあの支配人につまらないオチまでつけさせて映画はやっと終わります。観客の自由な思いに映画のその後を手渡すのではなく(ヒロインはこれからどうなるという)わかりやすい線と(死して大きな生きざまを示した人物をぴんしゃんさせて引き出す)イメージの意図のない明るさそして取ってつけたオチ... 物語の落着とその余韻をくるんで一度見事な終わりをつけながらもうひとつの終わりへと引き伸ばさねば終わりをつけられない不思議さです。

 

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思い出すのは以前児童文学者が自作を語って最近の子供たちはその物語が面白いかどうかの前にこれが本当のことかどうかを気にするというのです、そして本当のことでない(つまり創作されたお話だ)と知ると興味を捨ててしまう。いや子供たちに限ったことではなく最近の、とりわけ震災続きの21世紀を生きる私たちが大なり小なり浸っている感性のような気がするのはこの話が世界を本当のことと嘘に二分して見ているということに留まらず本当でないことはすべて嘘なんだという切って捨てるような酷薄な(そして悲しい)手際が伝わってくるからです。本当のことでないことはすべて嘘というのは(誰にも登れない)切り立った正しさであって、言うまでもなく本当のこととはどれほど本当なのか突き詰めてみれば消えていくのは本当のことの、本当さです。言葉によって記憶によって認識によって表現するしかない私たちの現実においては100%の本当とは実際には手に余るものであって逆にそうとわかっているからこそ自分を取り巻いているのが濃淡に漂う嘘の靄であることが何とも不安なのです。ただこの不安の上に立ってみれば『本能寺ホテル』が最初にあれほど見事に終わりをつけながらそれでは終われない理由も見えてきます。要するに形を綺麗に整えた終わりというのは綺麗であるが故に作り物めいて(しかも作り物であることをうまく隠している分)却って嘘っぽくそれに比べたら笑えないオチやヒロインの(ひたむきさを通り越して能天気な)ポジティブさの方がはっきりと作り物とわかっている分その嘘に安心していられるということです。(『ディア・ドクター』(西川美和監督2009年)で言えば追い掛けて解き明かせない人間の暗闇へ主人公がふたたび身を沈めて終わる得体の知れなさに比べたら例え人間的な輪郭を喪失してでも聖人の御札のような貼り付いたありがたさの方が受け入れられるということだと思います。)ただそうなると終わりは(時間の)造形としての終わりではなく言わば終わりを喪失することで物語外から強制された終わりに引き寄せられます。端的に学校が日本映画で取り入れられやすいのは(勿論各世代の郷愁も然ることながら)学校が即ち時間であり一日を束ね季節を束ね一年を束ねて卒業という終わりを設定してくれるからであって、終われないからこそ予め終わりのあるものに物語を組み上げるわけです。

 

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最後に松居大悟監督『アイスと雨音』(2017年)を見てみましょう。演技経験のない少年少女をオーディションによって選出して彼らを主演に演劇の公演をしようという企画の、その舞台裏が物語です。自ずと演出家にも熱が篭りますが年頃だけにそれぞれが行き場のない情熱を高ぶらせて時折別室に引き取ると稽古の続きなのかそれとも彼らの素の交わりなのか曖昧に芝居を重ねながらだんだんと演劇の全体を描き出す手の込んだ語りです。しかも彼らが別室に引き篭り更なる別室に抜け或いは稽古場に戻り稽古場から外へ出ていくのを追いながら松井の、別の試みも見えてきて、どうもこの映画は物語の上の(勿論架空の)舞台稽古を描きながらそれをそのまま舞台的なリアルタイムな進行にして映画全体をワンカットで撮ろうとしていることに気づきます。それが決定的になるのがこの企画自体がチケットの売り上げ不振を理由に中止になったとされてからでそこから少年少女たちの芝居の振幅が空間とともに広がっていってやがて奪われた公演を彼らのみで劇場に潜入しつつ実現するまでの70分以上をひと続きに映画は疾駆していきます。膨大なセリフと限られた場所を時間とセットを入れ替えながらしかも舞台の上でどういう位置づけなのか芝居とは浮いた位置で弾き語りに歌うふたり組もあって撮影の苦労と工夫何より役者もスタッフもミスの出来ない緊張は想像しても余りありますが、ただすぐに浮かぶ疑問は何故カットを割らないのかということです。映画のアイデンティティーとも言えるカットをわざわざ放棄するのはこの場合それ自体が目的でありワンカットであることに賭けているのはこの映画が<本当のこと>であることだと思います。(つまりカットを繋ぐ編集によって取捨していない撮ったままの<本当のこと>というわけです。)と同時にこの映画が劇場関係者の阻止を振り切って彼らが舞台に立ったところで終わるのもワンカットという方法上の終わりが即ち映画に終わりをつけているからで物語の終わりというよりもはるかに物語の外からつけられた終わりです。果敢な試みをやり遂げた高揚と安堵にエンドロールの少年少女は誇らしく舞台に立っていてしかしそれは誰のための誇らしさなのか、映画は<本当のこと>と終われないことにバッテンに縛られて現代の不安の海に放り投げられます。

 

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