山城新伍という芸名は自分がつけたと北の御大自ら書いてらっしゃいます(『旗本退屈男まかり通る』東京新聞出版局 1992.9)、聞けば山城の出身、時あたかも橋蔵が水も滴る若武者姿で若い女性たちに黄色い声を振り絞らせていた新吾十番勝負がヒット中、それらを足して出来た名前だと(安直さは認めつつ)まんざらでもない書きぶりにはあの、退屈男の高笑いが聞こえてきそうです。その山城は私が子供の頃には映画にテレビドラマ、司会、コメンテーター、CM、著述とまさに多彩な活躍を見せていて顔を見ない日がないようなそんな10年20年を走り抜けた、まさにスターではないスターの頂点を極めたようなひとです。

ただ彼を見ていて私なりに感じるのは何か自分のことを俳優で終わるような人間ではないと見做している、そういう野心というか謹直な(少年のような)大志を持っているということです。同じようなひとに田宮次郎があって、彼の場合はそれが実業界での成功です。升本喜年『田宮二郎、壮絶!』(清流出版 2007.7)を読んでもそんな田宮の周りをブローカーたちが跋扈して壮大な事業話を持ち込んでは何くれと彼から金を吸い上げていく、そして失敗すればするほど田宮の野心そのものは更に大きく深くなって彼自身を呑み込んでいくわけです。山城が田宮と異なるのは同じく自分を俳優で終わる人間ではないと思いつつ、同時に彼の頭のよさは自分がエンターテインメントの世界以外に成功しようがないことも見抜いていることです。頭がいいから自分の向こう側を見ようとし頭がいいから自分の限界も見てしまう... 山城の、真面目さといい加減さがないまぜになったあのキャラクターには何かそういう相剋のやるせなさがあるような気がします。

さてこのひとりの人間のなかの引き裂かれた心中は映画というものを真ん中に置くとさらにはっきりと分光していきます。『次郎長三国志』の桶屋の鬼吉は言うに及ばず任侠映画での箱持ちや律儀者の手代、組の仕打ちに愛想を尽かす若い衆(石井輝男監督『緋ぢりめん博徒』)など(東映のスターシステムにあって山城の位置づけとしてはヒロインを庇って悪にさんざんぱら傷めつけられ自分の無力さに歯噛みしながら耐えに耐えてその怒りを主人公の健さんたちにバトンタッチする役どころですから)小さい役ながら実直な芝居を見せますが、何と言っても俳優として水を得た魚となるのは70年代でしょう。


『トラック野郎』ではダッチワイフを小抱きにして登場しますし、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』では小池朝雄の戦友で何やらハレンチな発明に勤しんでおります。そういう役の<お下劣さ>もさることながら同じようなキャラクター設定ではある小池や名和宏が飽くまで演出に沿って芝居をしているのにそんなところはさっと逸脱して引きも切らないアドリブに芝居の内側までさらけ出してその圧倒的な過剰さに小池も名和も立ち尽くしています。芝居を絡ませるというより文字通り山城の独壇場で場面を仕切っては芝居を返すという感じです。その最たるものが『不良番長』シリーズでしょう。主演の梅宮辰夫の出で立ちからしてが『乱暴者』(ラズロ・ベネディク監督 1953年)のマーロン・ブランドから引いているわけですから、そういう可燃性の暴力を内に抱えながら街にすくぶっている若者たちの物語です。女、金、遊びの勝手気ままな毎日はやがて既存の組織とのっぴきならない軋轢に陥りますが、それに組み敷かれるのを拒否し飽くまで自分たちの自由を貫いて立ち向かうというのがシリーズ初期の姿勢です。仲間たちがひとりひとり倒れていきながら最後は主人公だけが生き残る、その姿には怒りと虚無感が漂って監督の野田幸男の目指すところがよく出ています。しかるに山城の加入後、彼のアドリブやギャグが徐々に作品世界に浸潤していき、やがてドタバタ、エロ、ギャグ満載のアチャラカ映画になると、共演の安岡力也や鈴木やすしたちまで悪ノリを始めてクライマックスで討ち死にするのもギャグにしてしまい(「わかったわかったもう死ぬ時間だからバイバイ」)、作品が内側から崩されていくのを見つめる野田監督の心中をや。

その一方でテレビのトーク番組でもこと映画の話になると、それまでのチョメチョメ話に脂下がった表情を一変させ(そう彫りも深くないあの顔に生真面目な眉間の皺を深く刻んで)日本映画の現状に真直な苦言を呈する山城新伍があるわけです。往時の日本映画の隆盛を知る者としてその衰微を憂う気持ちと、隆盛が傾いたからこそ(スターシステムが崩れ序列の重い蓋が罅割れて)自分がのし上がる余地が生まれ奔放に才能を発揮できたことは百も承知なわけですから、ひとつには括れない何かを映画にもまた抱いていたのでしょう

 

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