戸板康二『むかしの歌』(講談社 1978年)のなかに六代目の養子になっていた橋蔵が食事中も箸の使い方ひとつ、形が気に入らないと六代目に手の甲を打たれたとあります。しかし昭和24年六代目が亡くなると、尾上菊五郎という大名跡の養子ながら後ろ盾を失えば思うにならない世界であって(同じように戦中の鳥取大地震で父が客死した大谷友右衛門も映画俳優に転身せねばならなかったわけですものね)、まあそのおかげで私たちの知る映画スター大川橋蔵が生まれるわけですが。

さて六代目と言えば初代鴈治郎の追善公演で関西にやってくると娘婿であるはずの林長二郎が一門の口さがないひとたちのあれこれに肩身の狭い扱いを受けているのに我慢ならず(二代目の鴈治郎も書いていますが、初代が倒れたとき輸血が必要になって血液型の合う林の血を取ろうとすると歌舞伎界での身分違いを口にして合いもしない自分たちの血を使えと弟子たちがごねて困ったとありましたから、このときのことも推してしるべしでしょうが)、陰に陽に庇ったと言います。

当時林長二郎は東宝への移籍問題を抱えていましたが、その原因のひとつが「ほっかむりのなかに日本一の顔がある」と謳われた初代鴈治郎が亡くなってみると財産らしい財産もなくてそういう松竹の扱いに不信を募らせたことにあります。やがて東宝移籍、離婚(はずっと先のことだったと確か林成年が書いていましたから事実上の結婚の解消)、林長二郎という名前を返上し、そして誰もが知る顔を剃刀で切られるというあの事件と荒波に浮かぶ役者人生へ長谷川一夫は漕ぎ出すことになります。

それにしても役者馬鹿とは言いますが、初代鴈治郎が出された給料を文句ひとつ言わずに演じ続けたように六代目にしてもそれは同じこと。そんななかすっかり六代目に私淑した長谷川が踊りの稽古などを付けて貰いに来るようになると、勿論長谷川は運転手付きの自家用車で、それに仰天する奥さんを横目に六代目が言うには、昔は板芝居に泥芝居だなんて映画俳優を馬鹿にしていたのがいまでは家の修繕にも汲々としている自分とは違って、颯爽と自家用車に乗っているのは映画俳優、それが時節だよ。そんな六代目の小話が冒頭の『むかしの歌』にあります。あるとき自分の一座の役者たちが会社に出演料の値上げを要求するということが起こります。ターキーが松竹歌劇団で待遇改善のストを行っていた世はまさに争議の時代です。そういうことを潔しとしない六代目は激高して「尾上菊五郎一座」の解散をぶちます。しかし二三日して頭が冷えてくるとすっかり後悔してしまい、とは言え一度口に出した手前引っ込みもつかず、「尾上菊五郎一座は解散する、今日からは... 菊五郎劇団だ!」。

 

・戸板康二『むかしの歌』講談社 1978年

 

・寺島千代『私のこんちきしょう人生夫六代目菊五郎とともに』講談社 1987年

 

・林成年『父・長谷川一夫の大いなる遺産』講談社 1985年