山姥切國廣の写しの制作をご依頼いただき、地鐵や焼き刃土の研究や実験をしながら、取り組んでいます。
 刀において「写し」はそっくりな模造品を作ることでは無いと思っています。
 制作者の心にまで触れることではないかと。本歌にオマージュを込めた自分の作品を創るのだと考えています。

 天正18年、長尾顕長の依頼で堀川國廣が長義の太刀を磨上げた際に、その長義の写しとして制作されたのが山姥切國廣ですが、國廣は充分に本歌を研究した上で、彼らしい洗練された作品へと仕上げています。

 いつかこの作品に挑戦したいと考え、数年前、國廣の生誕地、宮崎県東諸県郡綾町にも行きました。
 現在は綾城が再建され、歴史資料館と公園などがあり、園内には烏帽子を被り手鎚を振り上げた「新刀の祖 田中国広」の像があります。
 彼は主家の没落で、主人の外孫 伊東満千代(後の伊東マンショ)の守役として豊後臼杵にまで同行し、その後は山伏として諸国を歩いています。長尾顕長の元で足軽大将として従軍し感状を賜るほどの殊勲を上げてもいるようで、ただ刀を作る職人として生きてきただけの男でないことに、とても親近感を覚えます。「写し」を制作するにあたっては、戦国の世を駆け抜けた國廣がどんな人生を歩んだかも知りたかったのです。

 さて、山姥切國廣写し、ようやく形になってきました。
 作品として仕上がってきたら、皆様にもお目にかけたいです。