横田南嶺管長 演題「めぐり合いの不思議に手を合わせよう」13:0014:30

 先ずはじめに、塚本惠昭様(東海暁鐘読書会・代表世話人)から横田管長のご紹介がありました。

「私が以前、円覚寺さんでの日曜座禅会に参加させていただいた時、横田管長さんが約500人の参加者を前に、「まず、腰骨を立てましょう!」と仰言られたことに大変驚いたことがあります。それまで私は、寺田一清先生から森信三先生の“腰骨を立てる”=“立腰”ということしか聞いたことがなかったのです。

 それで、私は管長と親しくさせていただくようになり、ある時こう尋ねました。「立腰と坐禅とは、どう違うのですか?」と。すると管長は、「立腰と坐禅は全く同じです」と。

 管長は歳の時、御祖父様がお亡くなりになられたときに、ご葬儀の際、般若心経を耳にし、これはいつか聞いたことがあるとお感じになられ、すぐに覚えてしまったというエピソードがあります。

 高校生の時には既に、坂村真民先生と文通をされ、松原泰道先生に会いに上京。真民先生のお墓(愛媛県・宝厳寺ホウガンジ)にも行かれたりしました。どんな感じの方でしたか?とお寺の方に尋ねますと、「さっと来てさっと帰られました」と。しかし、この宝厳寺は昨年 月、火災に遭い全焼。これ以上は、ご紹介が長くなりますので・・・。とにかく、率先垂範される管長老師です。それでは、よろしくお願いします。(拍手)

 

 本日のテーマは、「めぐり合いの不思議に手を合わせよう」です。いま、塚本さんからお話しがありましたので、もうこれ以上お話しすることは無くなったように思います。() 

 そもそものきっかけは、寺田一清先生が書かれました、森信三先生『一日一語』を、知人から頂きいつも手元に置いていたのです。その中に、「腰骨を立てましょう」とあり、それを普段から話し、伝え言っておりましたら、それを『いろはにほへと』(鎌倉円覚寺)に紹介しました。それを、アサヒビール中條会長が何かに書かれ、その後、寺田先生との対談へとつながったのです(致知2013-2月号に掲載)。

 つい最近、寺田先生から大きな箱が届きました。体調不良により本日欠席されるかもしれないとお聞きしておりましたが、本日こうしてお目にかかれ、しかも、お元気そうで良かったです。届けていただいたのは『森信三全集』でした。只今、少しずつ読ませていただいています。

 私は、この世の中には“三つの奇跡”があると思うのです。1つ目は「生まれてきたことの不思議」。2つ目は「今まで生きてきたことの不思議」。これは、数々のご縁と支えがあったお陰です。そして、三つ目は「めぐり合いの不思議」の三つです。

 森信三先生が仰言られます「二十一世紀の教育において最も大事なものは何か?」
について。それは「立腰教育」と「しつけの三ヶ条」だといつもお話ししています。 昨日も鎌倉のPTAで、5/16相田みつを美術館 ・友の会に招かれお話しして参りました。

「相田みつをさんともご縁が長いです」とお話しすると、「どういうご縁ですか?」と。それは、「私は毎日、相田みつをさんの“にんげんだもの”のマグカップでお茶を飲んでいます」と話しました。() 
 今から約
四十五年前、ちょうどこの場所に坂村真民先生が立ってお話をされ、それを相田みつをさんが息子の一人さんと一緒に聴かれていたようです。西澤真美子(真民先生の三女)さんと相田一人(相田みつをさん長男)と私の座談会 が致知の企画で行なわれました。私は凡事徹底ができておらず、いつも本が山積みとなっています。() 管長は、配布された資料をもとに、坂村真民先生の詩をご紹介。「月と母」「寂滅」「母を念えば」「世尊よ」「わたしは墓のなかにはいない」「見えないからと言って」「昼の月」「あとから来る者のために」。

 5/16に「母上よ・・・」の詩があり、真美子さんにお尋ねしますと、この日は真民先生のお母様の命日とのことです。真民先生44歳・お母様72歳。 お母様は嫁に来たとき、鎖鎌(くさりがま)を持って嫁に来られたそうです。36歳(大正6年)のときお父様がお亡くなり、未亡人となられました。その時、御祖母様がお母様に、「上の子三人を預け、下の子二人のみを育てなさい」と言っているのを、真民先生は襖の向こうでじっと聞いていたそうです。しかし、お母様は決して首を縦に振らず、お一人で五人の子どもを育てられました。

 この「念ずれば花ひらく」は、お母様が苦しいときにいつも口にしていた言葉だそうですが、どこからの言葉かはわかりませんが、真民先生は“八字十音の真言”だと言われております。

 私は真民先生の『生きていく力がなくなるとき』(柏樹社)を高校生の時に読んだとき、真民さんに初めて手紙を書きました。まさかとは思っておりましたが、真民さんからお返事を頂き大変驚きました。

 真民先生は当時、「詩国」という詩集を無料頒布されていました。これは、一遍上人が「南無阿弥陀仏のお札」を60万人への配布されていましたが、途中それに満たず24万人で留まったが、これを受け継ぐよう、熊野権現さんからお告げがあったことで、真民先生は決心覚悟され、詩集「詩国」を無料頒布されることなったのです。

 けれど、なぜ、熊野が仏教?とお思いになられた方もいらっしゃると思いますが、熊野においては、神仏が一体となっているのです。「唱うれば我も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」(一遍上人)。私が初めて円覚寺に来たとき、一遍上人のこの歌があり大変驚いたことがあります。西澤真美子さんからも私に、「南無阿弥陀仏」の書を真民記念館 に納めて欲しいと言われました。

 真民先生は宇和島にある大条寺(玉鳳院・大条禅寺)で坐禅をしていました。円覚寺の檀家さんだった方で、この大条寺の修業道場の老師さんが、私の高校の時の無二の友人なのです(ほとんど友人がいなかった、と)。そこで私は、真民先生への恩返しに、平成年以降、黄梅院(円覚寺の最奥にある寺院)の前の掲示板 に、真民先生の詩を書いて毎月掲示することに致しました。

 震災後のある時、「バスの中で」の詩を書いて掲げました。すると、西澤真美子さんからお手紙を頂きました。初めはどこのどなたか全くわかりませんでしたが、真民さんの三女の方だと書かれてありました。

 一昨年、坂村真民記念館(愛媛県伊予郡砥部町)が開館しました。現地に行き、重信川を渡ったり、宝厳寺にお墓詣り にも行かせてもらいました。本当は私はお墓にはそれほど興味は無かったのですが、仕事柄断ることもできず、お参りさせていただきました(笑)。「念ずれば花ひらく」と彫られた自然石の墓石でした。“風も光も自然の命”。

 しかし、このお寺(宝厳寺)が昨年八月、国重文の一遍上人立像も含め跡形もなく燃えてしまったのです。私は、「もし、真民先生が生きておられたら、何と仰言ったでしょうか?」と真美子さんに投げ掛けましたら、真美子さんは黙り込まれました。

 その約一週間後に真美子さんからお手紙が届き、そこには次のように書かれてありました。「吹く風 立つ風に一遍上人を見たであろう」。おそらく、真民は「そういうもんだ」と言ったことでしょう、と。「雨も嵐も仏のこころ」と書かれてありました。おそらくこれは、「四苦も八苦も仏のこころ」(仏三相)からきているものと思われますが。

 そして、「タンポポのように」の詩を最後にご紹介されました。タンポポの『根』のように、見えないところにも根を張っていこう。必ず縁となって表れてくれる。そう信じることが大切です。タンポポの『花』ように、どんな苦しいことがあっても、明るく生きよう。タンポポの『種』のように、どんな遠い処へも飛んで行って、幸せを蒔き散らしたいのです、と。(この時、鍵山先生は度ほど頷かれていました。) 西澤真美子さんから、「バスの中で」を書いてほしいと依頼があり、何回かの書き直しののち完成致しましたので、真民記念館に納めさせて頂きたいと思います。(完)

 

<追記:>「昭和34年9月12日に、初めて宝厳寺を訪ねた真民は、一遍上人立像と劇的な対面をし、それ以来真民のこころの中に「一遍上人」が大きな存在としてありつづけ、真民詩にも大きな影響を与えることになります。
そして、森信三先生との出会いも、この宇和島でした。真民が詩人として生きる覚悟を決めたのも、「詩国」発刊を決意したのも、森先生の大きな大きな励ましと愛の一喝によるものです。」
(坂村真民記念館・館長ブログ2013-9-23 より)


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