苦しみを乗り越えるということ
仏教の根本的真理の一つ「一切皆苦」
「すべてのものは苦しみである」と和訳される。だけど、どういう苦しみなのか?
パーリ語、サンスクリット語でdukkha(ドゥッカ)は、スマナサーラ長老によれば仏教で説くdukkhaには、「苦しみ」、「虚しい事」、「不完全である事」、「無常である事」の4つの意味が含まれるという。日本人仏教学者の説明では、「思うままにならない」ということだという。
「思うままにならない」ことは、苦しみであり、無常であることの言い換えになっている。無我もまた同じ。
さて、「思うままにならない」とはどういうことか?
大乗的になるが、思うままにならないというのは、「空」を個我から見たようすをいう。
「空」は、「縁起」のこと。あらゆるものが関係し合っていることをいう。孤立した不変の自我はないということでもある。
以上のことを「知る」のが旧来の仏教。
さて、私が思うに、知ってどうなる?と。
「仏教徒」がだよ、知ったことを傲り、知らない者を見さげている。おまえたちは真理を知らんだろっ!って。言葉の端々にそれが表われ、うんざりする。おまえたちはお釈迦さまを知らないね、教えてあげよう、と。
実生活上の経験、体験に教えを見いだそうというのが禅仏教だった。教外別伝と宣言して経典に頼ることがなく、釈尊を体験しようというのだ。禅は、知ることではなく、体験することを勧める。「真理を生きる」ことを勧める。
「空」と言っても実生活には直接関係はない。縁起という語を知っても、なんら救いの体験はない。禅は、縁起そのものを体験しようというのだ。知るでもなく祈るでもなく、体験するのだ。
唯識仏教では、縁起のことを「依他起性」と言っている。「他に依って起きる」という。だから、縁起(ものごと)は人の力、自分の力ではどうしようもできないものなのだ。
坐禅の勘どころは、縁起を見ることである。釈尊も「縁起を見る者は私を見る」という。
縁起を見るというのは、坐禅儀にあるように、一切を放下して、向こうからくるものごとを受け入れ、受容することをいう。この受容は難しいけど、肝である。山川宗玄老師が「現成受用」といい、道元禅師が「自受用三昧」というところ。
ものごとは、いつだって不愉快なようすで生じてくる。地震もあれば、津波もある。大切な人の死もあれば、病いにも襲われる。
これら自分の思いとは違うものごとは、現代語の「苦しいこと」であり、「つらいこと」である。
しかし、救いがある。
ものごとを個我から見るとそれは苦しみであった。そこで、個我を空じる、すなわち坐禅は、苦の毒牙を消滅させるのである。そもそも苦が無効であることを体験するのである。その「そもそも」のところに帰るのが坐禅である。すると、苦は幻の如く消えてしまう。般若心経に「無苦集滅道」とあるように。
世界と自己(個我)には不可逆的順序があって、世界が先で自己は後なのだ(滝沢克己)。
ものごとの影響を受けて初めて自己が生じる。だから、自己の意志で世界を変えようと言っても不可能なのである。苦とは自己の意志で世界を変えようとすることなのだ。子が親を産みたいと願うのは本末転倒なのである。ただ世界を受用するだけである。世界を受容することが、真に自由な主体性を獲得することなのだが、矛盾しているように見えるから、あまり理解されない。
禅徒らしく、体験的に表現するなら、
「地震があっても構わない、ガンになっても構わない、大切な人が先立っても構わない、財産を失っても構わない」と見極めることだ。どっちに転んでも「よし!」と言おう。
蛇足ながら、補説すると、思いが生じる以前にその場で帰る!ということだ。ものごとに委ねる、身を預けるということだ。
ものごとというのは、実は、本来の自己であり、「仏心」「空」「縁起」「法(ダルマ)」なのであり、それに信頼、信じるということなのである。この時、ものごとは、善でも悪でもなく、苦でも楽でもない。苦だと思ってたものが苦でなくなるのである。涅槃寂静である。
どんな災禍であろうと、それに身を預けてしまえば、災禍は攻撃対象を失ってしまう。災禍が消えてしまうのだ。
ちゃんとした師家について指導を受けるのが一番だろう。在家はあまり相手にされないけど。
これは、元大乗寺住職板橋興宗禅師の単。面壁だから、この語と向き合った。板橋老師は自在な人なので、マインドフルネスも試されたかもしれない。道元禅とマインドフルネスの接点を見ているのかもしれない。
これが仏心に帰ることと言えると思う。