好日庵のブログ

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坐禅を心の拠り所にしています。
静かに坐っていると、だんだん世界に融けこんで一つになります。
そういう日々をすごしながら、感動したことなどを綴ります。
仏教全般からキリスト教まで、関心の幅は広いのです。

国際ヨーガデー


夏至の日はヨーガdayなんだとか。

各地でイベントが行われたようだ。

友人の多くがヨガの講習会に参加している。わが母も少し前までヨガをやってて、うちにはヨガマットがいくつもある。

精神的修養というより身体を調えることに重点があるように思える。グループによっては、先生の話が重要で心を調えることにも気を配られている。


半年くらい前だったか、耕月寺のホームページをみたら、こんな注意書が新たに付け加わっていた。


注意当寺の坐禅は、仏道の実践であり、自己を忘ずることを指導するものです。

精神統一をするための瞑想や、健康法ではありません。まして坐禅体験会ではありませんのでご注意ください。


甲賀老師をイラつかせる何かがあったのだろうか?温厚な老師がやけにイラついてるではないか。

金沢大乗寺でも弟子からヨガ講習会をやったらどうかという話が出た時、東老師は、「ここは坐禅の道場であってヨガをやる場所ではない。瞑想は坐禅ではない、坐禅は瞑想ではない」と獅子吼している。


坐禅の師家なら仕方ないと思うけれど、仏教とヨーガは必ずしも対立するものではない。唯識仏教は、瑜伽派と言われていた。

ヨーガは、結合とか合一という意味で、精神作用を制御するという意味に使われている。梵我一如という意味も持たせるかもしれないが、二つのものを一つに結合するというのは、坐禅の一面をよく表しているように思える。


坐禅は結合である


これは私の大胆な私見。

これについて少し書いておきたい。


昨日からずっと相対性理論を学んでた。

光の速度で運動すると、時間が止まる。空間がなくなる。距離がなくなる。

太陽の光は、地球に届くのに8分かかるというのが常識的な考え方だけど、光の速度の運動する者から見ると、時間も距離もないから、出発したその時が到着なんだとか。


不思議な話に聞こえるが、坐禅の実感に一致するように思える。

坐禅すると、時間や空間がなくなる実感がある。みんな一つになってしまう。

時間や空間,目に見えるもの、認識もすべて、一つのものから分かれて出てきたもの。

後から生じたもの。

もともとは、私もあなたもない。未来も過去もない。

これを「空」と呼んだ。

真実のようす。


こういう話と物理学の最先端の話が奇妙に一致するように思える。

物理学はものを観察する。坐禅は自己を観察する。結論が符合してくるのはどういうことだろう。


空間がないというのは、私とあなたという関係がなくなるということ。私はあなたであなたは私。自他不ニという。

それが、私とかあなたに分かれてしまうのは、思考が観念を作り出すから。

もともとの実相は、私もあなたもない。

光には、移動ということがない。

つまり、ただ「ある」というだけ。

道元禅師は「只管打坐」ただ坐る。動くということがない。


坐禅するとすべてのものが一つに結合する。バラバラだと思ってたものが、もともとから一つだったと気づく。そのように実感する。それをヨーガ(結合)という。

すべてが一つならば、結合しているならば、悩みや不安は存在し得ない。

かって久松真一は「私には煩悩がありません」と断言した。これは、そういう消息なのだ。

西田幾多郎は「主客未分」「絶対矛盾的自己同一」と言った。盟友鈴木大拙は「即非の論理」を語った。

アインシュタインは、光にとって、出発は到着であるという。

みんな、ヨーガ(結合)がことの実相だというのである。

国際ヨーガデーに思ったことーー





「曹洞宗の宗旨の真実」を読む


「是れ」の話からいきなり始まる。端的に悟りの話。直球勝負である。あなたと呼んで即応するもの。即心是仏。観念でなく具体的に示すところに禅の命脈がある。直指人心そのもの。

正直言うと、瑩山禅師を舐めていた。そんな私にガツンと来た。

あ!この人、はっきりしてる!

そう思った。


世に有名で名を轟かせて多くの人望を集める名僧はたくさんいる。立ち振る舞いが立派かもしれない。豊富な知識もものにしてる。社会的地位も恣にしている。法を説けばわかりやすい。尊顔を仰げば、優しい微笑みを湛えている。たくさんの人が彼を崇めている。


しかし、本当のところはわからない。話を聞いて、こちらの知識が整理され、理解が深まる。それは大きな喜びを心に惹き起こす。

でもそれは本当の法悦ではない。

法悦は、何かを知るということではない。


悟りとは何か?救いとは何か?この苦悩を滅却するにはどうすればいいか?

そのような問いを抱いてあがきまわる。これが始めではある。それを知りたいと求めてさまよう。


そういうところで「是れ」の話をされてもわかるものではない。知識ではないのだ。観念ではない。だから、思考の対象にはならない。つまり言葉にはならない。

そういう話が冒頭から出てきた。驚きである。

言葉にできない、思考の対象にならない。そういうものであるから、昭和の曹洞宗で「悟りはない」という奇妙な説が力を持った。無所得無所悟。明らかに曲解。頭のいい人たちがいろいろ根拠づけをして、あっという間に立派な説に築き上げられてきた。本当らしく語られる。


この本は、瑩山禅師の在俗の弟子に説示された法話である。

冒頭から悟りについて語られている。手加減がない。相手を見て示されているわけだから、説示された妙浄は相当な人物である。こういう言い方が適切かどうかわからぬが、悟った人に向けられた話である。


本の注釈がなかなかよくできていて、最近の論点、石頭系の禅が馬祖の即心是仏とは別の探求となっているという指摘が書かれていて、新刊で出たばかりなことを実感させられる。馬祖の言う「心=仏」が中国禅を特徴づけたところだけど、石頭禅は心と仏は混同してしまうことがない点の重要な指摘となっている。ただし、石頭が馬祖を踏まえた上での話で、馬祖とは別の立場なわけではない。ここも極めて重要な話だけど、今はこれ以上触れない。


そんなわけで,法語自体がど真ん中直球勝負の内容な上に注釈がかなり丁寧なものになっているから、気を抜く隙がない。東論文からの注釈もある。じつにおもしろい。


瑩山禅師は、道元禅師の禅を正しく引き継いでいることを証明しようと心を砕いたという。禅の大衆化に道を開いた人だから、俗に堕したのでないかという考えが当時からあったかもしれない。しかし、この法語の冒頭を読むだけで瑩山禅師が道元禅師を引き継ぐ正統であることを智者ならわかるはず。


この法語は、写本が昭和十年に岩手県正法寺で発見されたものだ。写本の写真が本の冒頭に掲げられる。




瑩山禅師に学ぶ

大乗寺でお世話になった鏡徳寺の大野老師より竹内弘道「曹洞宗の宗旨の真実」(春秋社)をいただいた。曹洞宗を教団として確立した瑩山禅師の教えを解説する内容の新刊。
瑩山禅師は、一般にはあまり知られてないけれど、曹洞宗では、お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖として仰ぎ敬う。大本山總持寺の開山で、坐禅を一般大衆に広めた人物。
永平寺3世の義介禅師から金沢大乗寺を継いで住職となる。瑩山禅師から有能な弟子がたくさん出て、教団の勢力は隆盛となる。
永平寺は火災を繰り返し、支援者も離れて、廃寺同然となっていたから、曹洞宗の中心は金沢になってたわけだ。
後に、羽咋に永光寺、輪島に總持寺を開いて教団の基礎を築く。
日本伝統宗派最多の寺院数を持つ曹洞宗の隆盛は、瑩山とその門下によるものであり、全寺院の8割は元は總持寺系と言われる。

そういうわけで、瑩山禅師は一般にもう少し知られるべき人物であって、大乗寺で東老師を中心に地道な研究が行われてきた。最近になってやっとその成果が人口に膾炙し始めてきている。
「曹洞宗の宗旨と真実」は、たくさんの研究を背景にした期待の一冊。



大宇宙大仏


金沢大乗寺前住職東隆眞老師の墨蹟。

これは、老師の自覚を書いたもの。宇宙を大仏に見立て、礼拝の対象にしたわけではない。自己の自覚なのである。


ものを認識して識別作用が働くと、私とものに二分される。私が主体でものは対象。これが苦悩の始まり。すると、すべては二分され、自他、善悪、明暗、多少、苦楽…が現れる。個別の世界である。

二分される前のようすを主客未分、純粋経験と西田幾多郎が呼んだ。

仏教用語では「空」「仏」「不生」「仏心」などという。

この空の世界では、自他の区別がない。私もあなたもない。あなたは私、私はあなた。自他を分ける垣根がない。すると、生死も煩悩もない。超個の世界である。

すると、どういう自覚が生まれるかというと、この宇宙いっぱいが自己である、ということになる。

地球の裏側で小さな子どもが転んで、わーん!と泣く。

これが直ちに自己の痛みとなって、わーん!!

こういう働きを慈悲という。

心理学でもミラーニューロンといって、トランスパーソナルが語られているようだ。空は識別作用の世界からは理解は難しい。でも、心理学、脳科学の新しい成果からは、空についてもメスが入っているようでおもしろい。


大宇宙大仏とは、自己そのもののこと。識別作用の働く前の自覚をいう。

東隆眞老師は、その自覚を筆で表現した。だから、墨蹟を見ると、老師とのご対面という感じもする。身の引き締まる思い。




彼岸花


今年は残暑が厳しく、彼岸花の咲きが遅れたもよう。

ベランダの朝顔は九月下旬になって、彼岸が過ぎてから、やっと咲き始めた。

まだか、まだか!とドギマギしたよ。

金沢や川越の彼岸花のたよりは聞いていただけに。


この頃、原田雪渓老師の提唱を聞いている。

大きな気づきもある。こういう偉い人があるんだな!

体験してることを無理矢理言葉にしてるから、学者が知識を得ようとして聞いてもあまり納得できないものだ。論理的な話、概念、情報を提供しているわけじゃない。一緒になって体験してみるという話。

苦しみの根本原因、識別作用。こいつが働く前は、此岸も彼岸もない。此岸は彼岸で彼岸は此岸。三界を遊戯してればいい。

鳥が鳴けば、その声が間違いなく聞こえる。

自己がもともとないから。

それは鏡のよう。

もともと。誰でも。


「今の自分の事実に素直に従っていく、それが修行」

「善悪にかかわらす、今の自分の状態に納得しながら生活する」

こういうふうに堂々と言える禅僧は、他に誰があるだろう。噛めば噛むほど味がある。

万巻の書を読破しても仕方ない。この「納得」がなければ。今、ここの納得。

「納得」というのは、自己がまったくないという実感のことなのである。諸法無我という言葉を知識として覚えているのとはまったく違うわけだ。