ブログタイトルの「」をつけるのやめてみた。
「」つけるのやめてみた。
カッコつけるのやめてみた。
あー、格好つけてたのか。
でも、自分で読み直す時に、強調したい言葉の意味を勘違いしないために、やっぱりつけたい時はつけたりしようと思う。
人と情報交換したり、会うことができるようになってきたりして、一ヶ月ほど経った。
予想はしていたが、まだまだ3歩進んで2歩下がる、といった具合いであることがよくわかった。
情報交換しているだけのつもりが、相手が持つ、社会に対する不満や悩みにフォーカスしてしまう時があった。
人の話を、笑って聞けるようになったことで、「相手の悩みも深刻に捉えないようにしよう」という意識が働いて、なんなら面白いと思って深堀りしてしまう。
挙げ句の果てに、相手の悩みの正体を掘り続けてしまう。
それが相手のためにも、自分のためにもなると思ってしまう時があった。
でも違った。
悩みとの向き合い方、そのタイミング、それらは千差万別なんだ。
自分の中に確信があるとか、そんなことは関係ない。
それだって、本質的には「カンチガイ」なんだ。
「自分と向き合う」なんてワードも、要らない人はいるのだろう。
それらをひっくるめて、尊重する。
決別することも含めて、尊重する。
「相手のためにも、自分のためにもなる」と「思って」行動することが、まだまだ自分も相手も心配している証拠なのだと気付いた。
心配することが悪いわけではない。
心配する気持ちを0にすることがゴールなわけではない。
心配してしまったら、それを自覚して、まずは黙る。
「言いたいことは言った方がいい」の、唯一の例外かもしれない。
と言うより、まだまだ「言いたいこと」が100%には、わかっていないということなのかもな。
以前に比べれば、だいぶスパっと本音が言えるようになってきたとは思うけれど。
ただ、心配な気持ちに対しては、より条件反射ではなく、心配してしまう自分の気持ちを認めて、「それは自分に対して何を心配していることなのか」を自分に聞いてみて、その後言うか言わないかを「選択」する。
そうして選んで口から出てくる言葉は、ひょっとしたら「心配」ではなくて、「信頼」になっているかもしれない。
なーんて器用になかなかできないんだけどね。
でも、そうなんだろうなーと思う。
僕は長い間、人と連絡を取らなかった時期がある。
自分の自信の無さから、関わりを断ち続けた。
遠慮をし続けて連絡を断つことは、相手からすると無視をされたことと同じだ。
だから僕は遠慮することに慣れてしまっていて、「無視すること、無視されること」にも慣れてしまっている。
でも、本当は慣れてなんかいない。
無視はしたくないし、されたくもない。
けれど、「無視されるために遠慮する方法」が、身体に染み付いている。
だから無視すること、無視されることに結果として慣れてしまっている。
だから僕はまだ暫くは無視されることになるかもしれない。積極的に関わりを持とうとしても。
それは長年僕が築き上げてきた自分を守る方法であった反面、自分を取り戻してきた後に受ける報いなのだと思う。
つまり、「返事が欲しい」と言えないし、そういった意味を込めたやり取りの仕方がまだできていない。
結果、相手に遠慮させて、無視させる。
そういうことが起こるだろう。
コミュニケーションの取り方にカンタンなコツがあって、それを知らないだけだとしても、それを受け入れたりそれに出会うことに時間がかかることも、その報いに含まれる。
「報い」と書くと、自分を責めたような表現にも見えるが、自分を責めることがなくなったからこそ、使えるようになった。
「罰」としての意味で「報い」を表現しているけれど、「気持ち」としてはとても落ち着いている。
それは、「世界は優しい」と思えるようになったからだ。
「自分の中には本来何もいない」という前提があることを感じて、「カンチガイの人格」すらも愛しい存在なのだと思えるようになったからだ。
実際には、まだまだ無自覚に意味付けしている物事に気付かされて、自覚的な思い込みにするか、何も思わなくても問題無いヤツか、と、選択に困ることはあって、「カンチガイの人格」なんて偉そうに言えないこともあるのだけれど。
それでも、自分の喜びや笑顔に気付いた時の嬉しさ、人の笑顔を見ることができた時の嬉しさに気付けたことはとても尊く、「いい世界だなー」としみじみ思う。
そういう機会が増えてきた。
もう少ししたら、僕も「世界が優しい」ことをお知らせする皆さんに、協力したい!
何かしらの形で。
心配ではなく、信頼を前提に。
山歩き楽しい
