先日、久しぶりに「感覚の孤独」を感じた。
「あー、自分の考え方って、共感得られないかも」
「人は皆孤独ってわかってるつもりなんだけどなー」
「だめだ、生き辛い世界って感じてる、悔しい、悲しいなー」
ってなった。
ちゃんと人に頼ろう、自分の悲しい感情認めようって思って、行動を起こそうとした。
でも、、待った。
今自分って、アドバイス欲しいのかな?
皆の意見、受け入れられるかな?
「そーだよ、人は皆孤独なんだから、頑張るしかないよ」
そういう言葉、言われちゃうかもよ?
人に傷つけてもらいに行こうとしてないかな?
そう思った。
いったん寝たりのんびりしたりして、落ち着いて、「自分で落ち着けたことを褒めた後」に、相談するんだ。
そうやって落ち着こうと思えるなら、そもそもたいして悩んでないんじゃない?
そうかもね笑
でも、悩み「過ぎ」ていたのかもしれないよ。
だから、「悩んでいる」状態まで、もっていくことができたってことかもしれないよ。
そういう状態に持っていけると、「割と相談しやすい人」がまず誰なのか、わかってくる。
そして、驚くくらいちゃんと相談できる。
「あー、わかる」とか言われちゃう。
相手のアドバイスも、聞けてくる。
言葉を選んで相談しようとした自分、偉い。
落ち着こうとした自分、偉い。
落ち着いた自分、偉いなーー。
そういうことを繰り返していくと、「今自分辛かったんだ」って、わかってくる。
ちゃんと自覚したら、もう99点だよな。
100点でもいい。
自覚を自分で褒めよう。
「気持ちに気付いて偉いな」
「これホントの気持ちかな?どうだろう。まだ確かめきれてないけど、どうだろう?って思った自分、偉いなー」
そんな感じで自分を褒めてると、うるっときたりする。
あー、やっと悲しいことの正体がわかったか。
オッケーオッケー、じゃあ悲しんどくか。
涙を流すのもまた偉い。
偉いが止まらないなー。
気付けば笑顔になってたら、今度は選ぼう。
もっとリラックスしようかな。
とか
自分の人生のメリットのために、「頑張る」ってヤツを選んでもいいし、「するべきことをする」っていう考え方を許してもいい。
自分の気付きを褒める日常の隙間に、頑張ってみる、やるべきことをやるっていうことも許していく。
無理する必要はない。
我慢も本当はいらない。
でも、「無理しない」、「我慢しない」ってことを頑張り過ぎたら、それも結局笑顔を奪う。
ゆっくりやっていこう。
気付いていく。
たまに頑張っちゃおう。
べきという言葉も許していこう。
それから、落ち着くための方法は、「落ち着こう」、「のんびりしよう」、だけじゃない。
「アウトプットすること」
混乱した状態を人にさらけ出す、ではなくて、その気持ちを紙に書いたり、掃除をしたり、運動したり、何かを作ったりすることもあるだろう。
ただし、「これでストレス解消できる」と思わないこと。
「今自分は落ち着くために、落ち着いて人に相談できる状態に持っていくために、自分に合うアウトプットをしている」という感覚でのぞむこと。
人とコミュニケーションを取っている時に問題が生じると、「コミュニケーションの取り方」、「相手の性格」、「自分の性格」等にフォーカスしてしまいがちだけれど、ひょっとしたら、普段の生活の中でインプットすることが多いせい、ということもあるかもしれない。
効率の良い家事の方法をインプットする。
勉強で覚えるべきことをインプットする。
人の気持ちを理解する方法をインプットする。
そういう習慣を続けていると、人との会話も、「常に相手の言葉をインプットする」という姿勢に、気付かないうちになってしまう。
それはつまり、「相手の気持ちを受け止め過ぎる」という状態だ。
人とのコミュニケーションに問題が生じる、落ち着きたいのに落ち着けない。
そんな時は、日常でインプットし過ぎていることはないか、そこを見つめ直してみたり、自分が比較的スッキリするアウトプットは何があるか、振り返ってみる。
夢中になれることを探す、という言い方をすると、1日でプロの芸術家になれる自分を想像するようなものになりがちだ。
どうやらこれをアウトプットすると少し気持ちが楽になるらしい、くらいから。
そんなものなら、案外みんな持っている気がする。
改めて、意識していこうと思う。
ちなみに、僕はどうやら数学の問題を(紙に書いて)解くことが、落ち着く「ための」アウトプットの1つになるみたいです。
(そんなに得意とは思ってないけれど…)
でも、その感覚の発見が面白い。
