2023年11月20日(月)

 

母の病気がわかってから、病気や死がいつ訪れるのかわからないこと、そのタイミングはコントロールできず突然やってくること、そして、リスクマネジメント上そのような場合に常に備えておくことがいかに重要かということを痛感している。

 

翻って自分の場合、考えたくもないことだが、仮にも自分が膠芽腫と診断された母より先に死んでしまう場合は最大のピンチとなる。一応兄弟には妹がいるが、これがあてにならないのは分かりきっていることだ

 

そこでそうしたリスク事由が発生する前の対策が重要である。本来はこういうスキームを考えるとき、遺される健康な後継の子息などがいることが前提になることが多いが、私の場合は何せこじらせであり、唯一の法定相続人は母となる。しかし母は膠芽腫で失語もあり、相続手続はおろか自分の面倒すら見られない。その場合に、母の老人ホームの利用料を払い、日常のケアは老人ホームにお願いするものの、日常的に様子を見て、医療のアレンジもして、老人ホームに必要に応じて指示を出すというタスクを誰がどう行うようにするのか。

 

まず最近流行りの民事信託だが、これは、そもそも受託者が死亡すると終了するため、私を受託者とするのは上記のリスクマネジメントとしては使えない。妹もこの頼りなさだから、到底受託者にはなれないしなりたくもないだろう。

 

そうすると次に成年後見制度が思いつくかもしれないがこれは裁判所が判断能力が欠けていると判断することが必要であり、流石に現状の膠芽腫の要介護1の母ではそうしたジャッジがなされない可能性もある。

 

すると、任意後見契約を締結して、判断能力が欠ける状態になったときに後見が開始するアレンジもありうるが、しかし、任意後見は後見人が死亡すると終了してしまう点がリスクだ。

 

結局、老人ホームへの利用料支払を信託銀行などが取り扱う遺言代用信託を利用することにより私の死亡後も支払いが行われるようにしておき、かつ、妹に私の財産の一部を負担付遺贈して、この負担を上記のような母のケアということにしておき、遺言執行者を友人の弁護士に頼んでおくというスキームが現状思いつくところかな。

 

母の病気がわかってから、自分の価値観もかなり変わってきたように思う。以前は組織に属するとか、ブランドとか、そういうものをどこか重視していた。そんなものを誇りに思ってすらいたかもしれない。でもそういうブランドなんて、所詮他人が努力して作り出したもの。そしてそんな借り物みたいなブランドを身に纏う自分は、結局人の目を通して自分を見ている。でも、そんな自分って何?やりたいこと本当にできてる?そんなブランドをそつなく身に纏って優雅に踊ってみせたところで、人の波の中でどこか無理していないか?もうブランドとか、どうでもいいんだ。自分のやりたいことを、やろう。そう思った時、とてもすがすがしい気分で、I will be starting from scratch again-

もう一度やり直そうと思うんだ。常に、自分がいなくなるときのことを考えて、愛する人のために備えができていれば、自分は何しても安心だからね。母の病気を通して、自分の生を見直すことができたことのは、母が残された時間を使って私に遺してくれる大きな愛だろうと思う。ありがとう。