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「勝利の経典御書に学ぶ15」池田大作
 
「勝利の経典『御書』に学ぶ15」
池田大作
聖教新聞社
定価619円
125ページ
2015年4月28日 初版発行
 
2015年 平成27年 6月12日 読了
 
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【目次】
三三蔵祈雨事(御書全集1468ページ~)
富木尼御前御返事(御書全集975ページ~)
四条金吾殿御返事(梵音声御書)(御書全集1118ページ~)
 
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全人類の幸福のために説き残された日蓮仏法の真髄に迫りつつ、人生と社会の勝者となりゆく御書根本の生き方を綴っている。
 第15巻は三三蔵祈雨事、富木尼御前御返事、四条金吾殿御返事(梵音声御書)を収録。
名誉会長は、御書を拝しゆく信心の大道をこう語っている。
 「立ちはだかる人生と社会の難問。それを解決するカギは、御書の中にある」
 「御書には、海のごとき慈悲がある。限りない智慧があり、確信があり、戦う心が燃えている。宇宙と生命を貫く根本の法則が、御書に明快に示されている」――。
(出版社の案内より)
 
池田大作名誉会長の講義『勝利の経典「御書」に学ぶ』の第15巻が発刊された。
  本書は「大白蓮華」の連載をまとめたもので、「三三蔵祈雨事」「富木尼御前御返事」「四条金吾殿御返事(梵音声御書)」が収録されている。
 本書の中で、名誉会長はつづっている。
 「どこまでも善知識を求めよ! そして、われわれ自身も世界の人々の善知識となって、尊き友情を結んでいこう!――これが、創価の青年の気概です」と。
 地涌の連帯を広げゆく友への珠玉の指針が収められている。
(聖教新聞記事より)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義の「勝利の経典『御書』に学ぶ」の単行本化です。
 
20013年3月号~5月号の講義が収録されています。
 
以下、ポイントメモです。
 
ある時、戸田先生は言われました。
「御書には、一字一句にも、大聖人の御心が込められている。それを、一句でも心肝に染めたら偉いものだ。私は心から拝して講義をしている」
「不思議なもので、御書が拝せれば、他の一切のものが、易々と読めるようになる。生活のことも、明確な判断ができるようになる。ゆえに行き詰まりはないのだ」(P8)
 
「総勘文抄」に、「一切衆生に仏性があるといっても善知識という善縁にあわなければ、その仏性を悟ることも、知ることも、顕すこともできない」とあります。
凡夫が自身に内在している仏性を開くには、仏という最高の善知識が必要です。それゆえに、「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん」と仰せなのです(P19)
 
「もし人が、多く学んでも、行わなければ何の益もないのである」と。 
御文に戻れば、経文などを膨大に知っているから偉いのではない。一句でも心に刻んで実践することが、成仏の境涯を開く要諦でると、大聖人は教えられたのではないでしょうか。
特に感銘深いのは、須梨槃特を励まし続けた師・釈尊の慈愛です。そして、これに報いようとした弟子・須梨槃特の信心です。
また、ここで示されている須梨槃特の信心とは、本抄の冒頭で仰せられていた、ただ一筋に善知識を求める信心を指すと拝されます。師弟不二こそ成仏の大道なのです(P35)
 
晩年のゲーテと親交を結んだ青年が、自分の気の合う人とは喜んで付き合うが、そうでない人とは関わりたくないと言っていました。ゲーテは、こうアドバイスします。
「性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にあるいろいろのちがった側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。 君も、そうゆうふうにすべきだね。君には、自分が思いこんでいる以上に、その素質があるのだよ」(P37)
 
「一人を大切に」という人間主義こそ、仏法の結論であり、創価学会の伝統精神です。私も、全く同じ思いです。
直接、出会った方はもちろん、手紙や報告等で伺った場合も「励ますのは今しかない」と、一期一会の決心で、激励指導に生命を注いできました。
一対一の対話、さらに一対一の励まし。それは実は、仏法哲学の真髄であり、宗教の本来の精神ではないでしょうか(P48)
 
●ガンジーは一日平均百通ともいわれた膨大な手紙をおくるほか、直接人々に面談しての励まし、いわば“個人指導”の繰り返しだったのです。
有名なガンジーの評伝は、「ガンジーは全国のために心配ごとに取り囲まれていながら、一介の人間のことを気にとめていた」と指摘しています。
日常の雑事と映るそれらの悩み事に対処することは、ガンジーにとっては、決して疎かにすることのできない、いや、それどころか、彼が最重要の関心事でした。
なぜなら、民衆一人一人が、直面している眼前の悩みや困難に負けず、逞しく乗り越え、一個の人間として自立し、人生に勝利していくことこそ、インドの自立、すなわち、独立の本質だったからです(P49)
 
ガンジーはいいました。
「社会革命をもたらす正道は、それをわれわれの生活の瑣事において実証していく以外にはない」
宗教の生命もまた、自身の人間革命、生活革命にあります。
一人一人が現実に直面している生活の悩みと格闘し、生命の境涯を変革していく、その軌道の中にしか、真の社会変革の道もないし、立正安国もないのです。 この出発点にある人間革命を開いていく大道こそ、一人への「励まし」です(P50)
 
より重要な点は、眼前の人を最大に励まされることはもちろんのこと、そうであればこそ、常に、その背後にいる人。そうした存在を絶対に見逃すことなく、温かな慈眼を注がれているということです。むしろ、支え守る労苦の人に対して、より深い感謝を抱かれています。
表に現れて見える部分は、その背後に広がる目に見えないものがあってこそ成り立ちます。
大聖人は富木常忍の背後に、ただちに夫人の存在をご覧になられました。「富木殿がこれまで来られたのは、尼御前のお力があったればことです」「今、富木殿にお会いしていると、尼御前を見ているようです」と。
尼御前は“師匠は全部、分かってくださっているのだ”と、どれほど感動し、安心したことでしょうか。
また大聖人は「富木殿から聞きましたよ」と、尼御前が姑の介護に尽してきたことを、夫の富木常忍が心から感謝していたと、常忍の気持ちを代弁するように綴られています。
日本の男性には、今日でも、妻への感謝の心情を、たとえ心に思っていても、直接、口に出して伝えられない傾向があるのではないでしょうか。いずれにしても、夫妻を大きく包み込む大聖人の慈愛が伝わる一節です。
仏法の人間主義とは、具体的には何なのか、それは結局、こうした「濃やかな配慮」「温かな励まし」に表れるのではないでしょうか。
人間の絆がますます希薄化している時代にあって、こうした「励ましの芸術」によって、一人を大切にし、生命の尊厳を守る、温かい人間共和の社会を築くことが、広宣流布の大いなる前進であると私は確信してやみません(P55)
 
「同苦」の心は、人をして「自分は一人ではないと気づかせます。他者への共感に目覚めます。
富木尼御前もまた大聖人の励ましを胸に、自分の苦しみをバネとして、大きく境涯を開いていったに違いありません。
ともあれ、生老病死の苦悩から無縁の人間は誰一人いません。また同時に、その苦悩を乗り越えゆく生命の無限の可能性、仏性を具えていない人間もいないのです。
この万人平等の真実に眼を開くことが、苦悩からの解放の第一歩なのです(P69)
 
現実の人生には、あれやこれやと、苦しく辛いことが多いかもしれない。しかし、妙法の信心を貫く人は、その苦悩の泥沼に足を取られて沈むような必要は断じてないのです。じめじめなんかしないで、からりと心を軽くして、前にむくのです。
喜び勇んで、朗々と、題目を唱え抜いていくのです。題目を唱え抜く生命自体が、煩悩即菩提であり、すでに勝利なのです。苦悩を見下し、勝っているのです。
戸田先生は、よく「指導とは激励なり」と言われていました。
その人が、“よし、やろう”勇気を奮い起して立ち上がるまで、力強く励まされていました。
仏法の励ましの世界は「感傷」や「慰め」ではありません。その人の仏性を呼び覚ます真剣勝負の世界です。
だから、戸田先生は、本人に「また来なさい」と語られ、また周囲に、「激励していくように」結果が出るまで心配された。一人一人に「信心してよかった」という喜びを断じて味わわせるのだと、励ましを続けられていた。
そして、皆が自身の仏性を開き、負けずに立ち上がった姿、勝利の姿を何よりも喜んでくださった。
まさに仏法は、一人一人が、最高の「幸福博士」の勝利の生き方を実現することを教えているのです(P77)
 
さあ、毅然と頭を上げて、朗らかに前進しましょう!
もしも、今、不幸だというなら、自分で幸福を生み出すのです。
まず自分自身が太陽になって、周りに陽光を広げるのです。
大聖人の仰せの通りに進む「法華経の行者」である学会員を諸天善神が護ります。三世十方の仏菩薩が護ります。全宇宙が味方します。何も心配はいらないのです。
我らの生命は、無限の価値創造の源泉です。絶望の闇を破る、永遠の希望の当体です。
その偉大な力に目覚めよ!と、声高らかにかたりながら、どこまでも、また、どこまでも励まし合いながら、私たちは進みましょう(P79)
 
広宣流布は、大聖人の時代も、現在も、そして未来永遠にわたって言論戦です。
だからこそ「声」が大事です「声」が弾丸です。「声」が剣です。
真実を語り抜けば、必ず相手の心に響きます。
正義を叫び抜けば、邪悪を打ち破っていけます。
真剣な声、必死な声は、人々の心を突き動かしてやみません(P88)
 
主権在民の現代においては、「王」とは主権者たる「民衆」一人一人であるといえます。
問題は、その「民衆」が織り成す社会が、いかなる社会なのかです。人間を軽んじ、差別が横行する社会なのか、共々に境涯を高めゆく社会なのか、その帰趨(きすう)を決めるのが、社会を構成する一人一人の思想です。
ゆえに、法華経の行者は、一人一人の変革を通して、民衆の境涯を高める社会を実現しようとする行動を続けます。
「民衆のための社会」「人間のための社会」を実現するためにこそ、社会に巣くう民衆蔑視、生命軽視の風潮や思想とは断固戦い、正義の「声」をあげてくことです。
これが私たち学会員の日々の対話運動の根本理念です。また、大聖人に連なる広宣流布の誉の闘争なのです(P94)
 
●いかなる宿縁か、不思議にも、この仰せの通りに、末法に妙法を持ち、妙法弘通の実践をしているのが、創価の同志です。学会員一人一人が語った分だけ、間違いなく仏縁は広がる。正義が広がります。
「声」が」力です。「言葉」が武器です。
そして「なんとか仏縁に触れさせたい」「幸福の道を歩んでもらいたい」との慈悲の勇気の祈りがある限り、私たちの「言葉」は必ず響きます(P105)
 
先生はまず、「如意宝珠とは、心のままに宝を出す珠のことをいうのです。家がほしいと思えば家ができ、金がほしいと思えば金ができ、なにひとつとして心のままにならぬものはないという珠を、無量宝珠というのです」と。私たちに分かりやすく教えてくださいました。
そして凛然と語られました。
「御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。はっきりと私は申し上げます。いかなる願いも、かなわないことはないのです」
叶わない願いなど断じてない!恩師の烈々たる宣言でした。
私たちも、この大確信で心して進んでまいりたい。
妙法を信じ抜き、題目を唱え抜き、果敢に実践しぬいていく限り、絶対に行き詰まりはありません。
信心があれば、私たちの胸中に如意宝珠の御本尊が厳然と輝きわたっているからです(P111)
 
●何を言っているかわからない弱々しい声では、諸天も動きません。朗々たる音声で、力強く題目を挙げていくことです。
病気などで声が出せないこともあるでしょう。そういう場合は「心の声」を響かせるのです。
同志の幸福、広宣流布の勝利、自身の人間革命をどこまで真剣に祈っているのか。そのやむにやまれぬ「心の声」が、諸天を動かし、友の心を希望へ、蘇生へ、前進へと奮い立たせていくのです(P120)
 
大誠実の振る舞いに徹してゆくことが、自身の人格を大きくします。そして、信心を、強く深くしていくのです。
大変な中でも、人を励ますからこそ、功徳があります。確信の声は、皆を安心させます。指導者は声で決まるといっても過言ではないのです(P121)
 
戸田先生は「命をかけてやる声は、必ず響く」「確信ある声の響きこそが、新たな革命の力である」と語られました。
そして、民衆を救う「声」であるゆえに、粘り強く、語り続けることが大事です。
「百回語れば、百倍の功徳となって返ってくる。これが『声仏事を為す』ということだよ」とも、戸田先生は指導されました。
「声」は仏の名代です。
満々たる生命力の題目の声を!
友を励ます勇気と希望の声を!
時代変革の正義と真実の声を!
さあ、平和社会の建設へ、民衆の幸福拡大へ、「立正安国」の大願に燃えて、声を張り上げて打って出ていくには、「今」この時なのです(P121)