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創価学会永遠の五指針」池田 大作
 
創価学会永遠の五指針
池田 大作
聖教新聞社
定価648円
150ページ
2017年1月26日 発行
2017年5月5日 第4刷
 
2017年 平成29年 7月13日 読了
 
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【目次】
一家和楽の信心 
幸福をつかむ信心
難を乗り越える信心
健康長寿の信心
絶対勝利の信心
 
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1957年、戸田城聖先生は遺言ともいうべき「永遠の三指針」を発表、
2003年に池田大作先生が「健康長寿の信心」「絶対勝利の信心」の
二指針を加え、師弟共同の指標として「創価学会永遠の五指針」が
示されている。
本書は、全同志がもれなく幸福になり、一人一人が目指すべき信心
の在り方を、また、何のための信心なのかを、御書の御文を通して、
わかりやすく指導されている。
※「大白蓮華」に連載された「世界を照らす太陽の仏法」(2016年
1月号~5月号)を収録。
(出版社の案内より)
 
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何のために信心をするのか。
 
学会員の日々の行動は多種多様で、多くの目標を立てて邁進していますが、目的と目標は、混同してはなりません。
 
信仰を行う永遠にして不動の目的こそ「創価学会永遠の五指針」で、これ以外に、信心をする意味はありません。
 
その、明確にして究極の指標を、この一書で学べます。
 
以下、ポイントメモです。
 
●指針の淵源は、1957年(昭和32年)12月に遡ります。戸田先生は、75万世帯達成という生涯の願業をついに果たされました。その先生が、衰弱した体をおして、熟慮されていたことがあります。
全同志を、一人ももれなく幸福に導くために、一人一人が目指すべき信心の在り方を、また、そもそも、何のための信心なのかを、明確に示し留めておこうとされたのです(P9)
 
●家庭は、人生の基本となる「安心」と「希望」の拠点であり、「幸福」と「平和」の基地にほかならない。日々の生命と活力の「蘇生」の場であり、前進と充実を生み出す「創造」の絆であり、「和楽」と「成長」の城です(P11)
 
●家族は、日蓮仏法の信仰において、かけがえのないテーマです。ゆえに「一家和楽の信心」が一番目に掲げられているのです。
戸田先生は、「社会の基盤は、家庭になる。そして、盤石な家庭を建設していく源泉は、一家和楽の信心である。それこそが、一家の幸せのためにも、社会の繁栄のためにも、不可欠な要件といってよい」と構想されていました(P11)
 
●「和楽」という、世界平和の縮図を実現するために、いかにあるべきか。
第一は、自らが「家庭の太陽」となって、慈悲の陽光で皆を包むことです。
第二は、親子、夫婦という家族の絆は、三世の宿縁であることを知って、互いに尊敬し合うことです。
そして第三は、社会に貢献していくことと、その後継の流れを創り出すことです(P12)
 
 
 
●戸田先生も、未入会の親がいる青年をよく励まされていました。
「慌てて、信心の理屈を話す必要はない。時間がかかっても、かまわないから、まず自分自身が立派になって親を安心させていくことだ。
そして本当に親を愛し、慈しみ、親孝行してもらいたい」と(P16)
 
●大切な家族を失うことは、あまりにもつらく悲しい出来事です。頭ではわかっていても、感情や心の次元で肉親の死を受け入れるまでには、時間がかかるでしょう。
心が落ち着くまでの時間は、人それぞれです。心が及ぶまで追善の題目を唱えなさい、という御文もあります。
病気で亡くなる場合もある。災害や事故で突然、命を失う場合もある。しかし、「心の財」は壊れることはありません。広宣流布の途上で亡くなった場合は、断じて今世の宿命転換を果たし、悠然たる境涯で霊山へと旅立っているのです。
自らは信心していなくとも、家族の題目に包まれた方も同じです。
「生死不二」の仏法です。
大聖人は、妙法の絆で結ばれた家族は、死してなお、再び巡り合えると仰せです。
親子、夫婦は三世の宿縁です。ゆえに、どこまでも信頼し、互いに成長していこうと励まし合うことで、妙法の絆はますます深くなっていきます。これが「和楽」の要諦です。
「生も歓喜、死も歓喜」の仏法の眼から見るならば、「生も和楽、死も和楽」の大境涯を必ず開いていけるのです(P22)
 
●家庭における信心の継承――これは、創立100周年を目指し、万代への盤石な広宣流布の基盤を築いていく上で最重要の課題です(P25)
 
●家族で一緒に会合に参加することにも大きな意味があります。子どもたちが、今は分からなかったとしても、信心の息吹を肌から感じることで、偉大なる仏縁を結んでいることは間違いないのです(P29)
 
●親はどこまでも子どもたちの可能性を信じることです。誰もが末法閻浮提の広宣流布を約束した地涌の菩薩です。いつかその使命に目覚めて立ち上がる時が必ず来ます。
その時まで諦めずに成長を祈り続けられるかどうか、親の信心が試されているのです(P30)
 
●一人暮らしの方、結婚をされていない方もいます。お子さんのいない夫妻もおられます。ひとり親のご家族もあります。家族の在り方は千差万別です。
しかし、私たちは、皆、創価家族です。久遠元初からの誓願という最も深く、最も麗しい生命の絆で結ばれています。
苦労を分かち合い、困難を克服し、互いの成長をたたえ合い、感謝し合う。愚痴を祈りに変え、非難を励ましに変え、苦楽を共にする価値創造の家族から、地域や共同体を変革する希望が生まれます。
和楽の家庭が築かれてこそ、真の平和社会が創出されていきます(P30)
 
●日蓮大聖人の仏法の目的は何か――
人間は、幸福になるために、この世に生まれてきました。不幸になりたくて生まれて来た人は誰一人としていません。
ゆえに「幸福」は、古来、哲学の根本命題でした。
そして、宗教は、本来、人間の幸福のためにこそ存在するのです(P36)
 
●戸田先生は、「幸福をつかむ信心」といわれました。この「つかむ」という一言には、深い深い哲学があります。
幸福は、他の誰かから与えられるものではない。自分の意志や努力とは無関係に、いつか突然やってくるのを待つものでもない。
究極は、各人が、自分自身で「つかむ」しかありません。必ず「つかむ」ことができる信心なのです(P38)
 
●「ただ女房と酒うちのみて」です。四条金吾に妻の日眼女がいたように、苦しみを分かち合う同士が、仲間が必ずいる。一人で抱え込む必要はありません。
そして御本尊は全てお見通しです。人がどう言おうとも、毅然と自信の人生を生き抜いていけばよい。身近な善友と励まし合いながら、題目をあげ抜いていく大切さを示されていると排せます(P43)
 
●力強く立ち上がっていく関西の庶民たちは、罵声を浴びせる人たちの本性に、宗教の本義も知らず、人間を見下す傲慢と錯覚があることを直感的に看破しました。
生活の変革に勝る真実はありません。
宿命の転換に勝る証明はありません。
先師・牧口常三郎先生が明察された通り、仏法は「生活法」です。人生の荒波を勝ち超える力です。無上最高の幸福に至る道です。
戸田先生は、呵々大笑されていました。
「貧乏人と病人の集まりの何が悪い。一番、不幸な人々に寄り添い、その人たちを救ってこそ、本当の力ある宗教ではないか! 学会は一番の庶民の味方だ」(P47)
 
●一番、苦しんだ人が一番、幸福に!
誰人も、幸福になる権利がある。仏法は、最も苦しんでいる人の最大の味方です。
我ら創価学会が「永遠に民衆の側に立つ」
ことは、民衆を不幸にする根源の悪と戦い続け、万人を幸福にする信念の証なのです(0P48)
 
●法華経に説かれる「随喜」について「御義口伝」には仰せです。
「喜とは自他共に喜ぶ事なり」と。自分も、他者も共に喜ぶ。そこに真の歓喜が、幸福があると言われるのです。
幸福とは、各人が自らつかむものであり、自身の生命で感得するものです。
しかし同時に、自分一人だけの幸福もありえません。自分さえ幸せなら後は関係ない――それでは利己主義です。
だからといって“自分はいいから、他の人が幸せに”というのも、仏法の理想とは異なります。
そうではなく、“自分も人も一緒に!”“自他共の幸福を目指す”というのが、本当の幸福でしょう(P54)
 
●うれしいことがあると、私たちは、この喜びを誰かと共有したいと願います。家族、友人、同士、そして師弟――苦楽を分かち合う関係の中で、幸福はより大きくなるのです(P55)
 
●「御義口伝」には、「我心本来の仏なりと知るを大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の歓喜なり(P788)」と示されています。
しかも、我が心が本来、仏であると自覚することは、自分だけでなく他の人々もまた仏だという覚知をともないます。
「自他共に」仏なり、です。そこに絶大な喜びが込み上げてくることは必然でしょう。
「自他共に喜ぶ」境涯を開いていくところに、三世永遠の無上の幸福が輝いていくのです。
わが生命を、そのまま「無作三身の仏」と開きゆく以上の喜びも、幸福もありません。それこそ成仏であり、自由自在に妙法の功徳を自らが受けきっていける「自受法楽」の境涯であり、絶対的幸福境涯なのです(P57)
 
●人間は、思わぬ事に直面した時、どう対応するかが大事となる。まさに挑戦と応戦です。
信心の実践から言えば、難や試練に遭った時に、信力、行力を奮い起こして、仏力、法力を引き出す。
その応戦で積んだ「心の財」は大きい。崩れない。そして、多くの人を幸せにする力となります。
“大切な仏子を一人ももれなく幸福に”との恩師・戸田城聖先生の切なる願いが込められた指針が、「難を乗り越える信心」です(P68)
 
●難に遭遇した時こそ、その人が築き上げてきた生き方の真価が最も鮮明に現れます。
不運とあきらめるのか、時が解決するのをじっと耐え忍ぶのか、自分の人生を嘆くのか、はたまた、他人や環境のせいにして恨むのか(P71)
 
●「難を乗り越える」――これが洋の東西を問わず、先哲の道です。喜び勇んで挑んでいくのが創価の賢者の人生です。
「嵐は誉れ」です。その勝利の鍵となるのが、難と真正面から向き合う、師子王の如き信心なのです(P71)
 
●どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばよい。悩みを祈りに変えて、題目を唱えれば、わが生命に、勇気がみなぎり、希望が輝き始めるではありませんか。
「難を乗り越える信心」とは、「難を乗り越える祈り」であり、「難を乗り越える唱題」の異名です(P73)
 
●戸田先生は、「大聖人の仏法は、逆境にある人が、幸せになる宗教なのだ。苦難にあった人ほど、それを乗り越えた時、すごい力が出るのだ。その人こそが、本当に不幸な人々の味方になれるのだよ」と語られました。
地涌の使命を自覚すれば、偉大な力が出る。難は、民衆を救うために、自らが願って受けた難となる。そして、それを乗り越えることで、人々を救うという願いを果たすことができる。使命を果たすために難はあるのです。
「なぜ自分が」という歎きから、「だからこそ自分が」という誇りへ、難に対する姿勢の大転換を教えられているのです(P79)
 
●第六天の魔王といっても、その本質は、生命に潜む元品の無明が、魔の働きとなって現れてきたものです。
自身の境涯を広げようとするから、止めようとする力が働く、船が進めば波が起こり、走れば風圧が生ずるように、人間革命の道を進みゆく人々に、信心への不信、疑念を抱かせようとするのが、魔の本質なのです。
決して、自分の信心が弱いから、また、自分の信心の姿勢が悪いから難が起こってくるわけではないのです(P81)
 
●さまざまな悩みを抱えている人もいるでしょう。しかし、戸田先生は、よく「宿命と戦っている自分の姿を、そのまま見せていけばよい」と、語られていました(P87)
 
●生きることは「戦う」ことであり、「使命を全うする」ことです。勇敢に進み、堂々と使命を全うしながら人生の根源的苦悩を勝ち越えていくのが、日蓮仏法の目的です(P97)
 
●今まさに治療中で、病と闘っている同士もおられるでしょう。
「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり(P1170)」であり、「法華経と申す御経は心身の諸病の良薬なり(P1015)」と仰せの通りです。
「病魔に勝つ」と一念を定めて題目を唱え、自身の生命力を湧き起こしていくことです。
生老病死は人生の実相であるゆえに、避けることはできません。逃げていては、真の幸福を勝ち取ることはできない。
大聖人は、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや(P1124)」とも仰せです。
病魔を恐れず、侮らず、戦い挑む「強い信心」が、仏界を力強く涌現させるのです。病魔の「挑戦」に対し、「応戦」していくのが、私たちの信心です(P102)
 
●両親や家族が、認知症や寝たきりとなる場合もあるかもしれません。しかし、決して悲観したり、不安に思ったりする必要はありません。妙法とともに生きてきた人は、すでに三世永遠の生命の勝利者です。
広布の活動ができなくなっても、長年の信仰によって培われてきた「心の財」は、決して失われません。絶対に壊れません。
ひとたび「心の財」」を築いた人生は、それ自体、無窮(むきゅう)の価値を刻んでいます。
そして、永遠の「仏界の生死」の軌道に入っているがゆえに、妙法に照らされて本有の病のまま、本有の老いの姿のままで、今も毎日、「心の財」を積んでいるのです。一日一日が生命の財宝を築き、心の境涯を広げているのです。そのことを確信しきって、題目を送っていくことです(P109)
 
●誰もが迎える「老い」という現実を受け入れ、いかなる人生の総仕上げを、共に迎えていくのか――
介護は、人生の最終章を支える「聖業」といえるでしょう。それゆえ、介護をする一人一人の生命観や人間観が大事になるのではないでしょうか(P112)
 
●介護の切実な現場では、葛藤や不安にさいなまれ、苦しみにもがくことも多いに違いありません。思うようにいかないことがあっても、自分を責めたり、無理をせず、賢く自分らしく工夫をお願いします。どんな苦労も絶対に無駄にはなりません。
幾多の同士が共通して語られているのは、「介護を通して自信が成長できた」という「感謝」の気持ちです。
また、介護された方からの「ありがとう」という言葉に心が軽くなり、救われたという声もあります。
「お互いに感謝し合う」という介護の関係は、自他共に智慧と慈悲を増しゆく「皆、仏なり」との希望のモデルといえるでしょう。
介護の期間が長くなり、介護する側も高齢化しているという厳しい現実もあります。それゆえ、決して一人で背負い込むことはありません。
公的支援や地域のボランティアの協力なども、最大限に活用して下さい。施設を利用するのも智慧です。
介護する家族の皆さまは、どうか自身の体を大切にしてください。聡明に、また朗らかに、価値創造しながら、上手に進んでいっていただきたいのです(P113)
 
●恩師はこう教えてくださいました。
「信心は形式ではない。一瞬一瞬を大事に生きるということだ」「一瞬の一念に何を思ったか、行動したのか、その積み重ねで、成仏が決まるのだ」と(P117)
 
●「絶対勝利」――これこそ、私たちの信仰と人生の究極の目的です。戸田先生が衰弱したお体をおして熟考され、発表してくださった「永遠の三指針」の奥底を貫く、根本の精神です(P127)
 
●広宣流布とは永遠に仏と魔との闘争です。
戸田先生は、よく語られました。
「信心は、人間の、また人類の行き詰まりとの戦いだよ。魔と仏との闘争が信心だ。それが仏法は勝負ということだ」
だからこそ善が、悪に負けるようなことがあってはならない。断じて勝たなくてはならないのです。
仏法は、人間生命の内面で、仏と魔が間断なく熾烈に争いを繰り広げていることを教えています。
生命に本性として具わる善性、その働きを「元品の法性」といいます。
反対に、生命の本性として具わる悪の性分、その本源的な悪の働きが「元品の無明」です。
御書には「元品の法性じゃ梵天・帝釈等と顕れ元品の無明は第六天の魔王と顕れたり(P997)」と説かれています。
己心の仏性を信じて、南無妙法蓮華経の題目を唱えていく時、わが生命の「元品の法性」が触発され、諸天の働きが厳然と現れてきます。
一方で、末法という正邪が顚倒(てんどう)した時代は、「元品の無明」が現実社会に蔓延する悪縁に触れて、増長していく。ゆえに法華経の行者に対する魔の勢力の反発も強まるのです。
だからこそ、現実の「外なる悪」と戦い、勝たねばなりません。「外なる悪」との戦いは、「内なる悪」に打ち勝ち、「内なる善」を開き顕す戦いと一体だからです(P144)