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「勝利の経典御書に学ぶ13」池田大作 vol.1
 
「勝利の経典『御書』に学ぶ13」
池田大作
聖教新聞社
定価619円
125ページ
2015年2月16日 初版発行
 
2015年 平成27年 6月2日 読了
 
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【目次】
 
上野殿御返事(梵帝御計事)(御書全集1537ページ~)
弥三郎殿御返事(御書全集1449ページ~)
兵衛志殿御返事(三障四魔事)(御書全集1090ページ~)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義「勝利の経典『御書』に学ぶ」が待望の単行本化。全人類の幸福のために説き残された日蓮仏法の真髄に迫りつつ、人生と社会の勝者となりゆく御書根本の生き方を綴っている。
第13巻は上野殿御返事(梵帝御計事)、弥三郎殿御返事、兵衛志殿御返事(三障四魔事)を収録。
名誉会長は、御書を拝しゆく信心の大道をこう語っている。
「立ちはだかる人生と社会の難問。それを解決するカギは、御書の中にある」
「御書には、海のごとき慈悲がある。限りない智慧があり、確信があり、戦う心が燃えている。宇宙と生命を貫く根本の法則が、御書に明快に示されている」――。
(出版社の案内より)
 
池田大作名誉会長の講義『勝利の経典「御書」に学ぶ』の第13巻が発刊された。
本書は「大白蓮華」の連載をまとめたもので、「上野殿御返事(梵帝御計事)」「弥三郎殿御返事」「兵衛志殿御返事(三障四魔事)」が収録されている。
 
「『今ここ』が、広布の突破口を開く決戦場であり、自身の宿命転換の正念場である――こう自ら決めて祈り、行動する時、必ず勝利の道は開かれます」
広布に生き抜く友への指針が収められた珠玉の一書である。
(聖教新聞記事より)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義の「勝利の経典『御書』に学ぶ」の単行本化です。
 
20012年9月号~11月号の講義が収録されています。
 
以下、ポイントメモです。
 
私の心は、いつも「青年」でいっぱいです。
奮闘している青年の様子を聞くと、私は、居ても立ってもいられなくなる。
何かしてあげたい。何でもしてあげたい(P6)
 
「根本の哲学は、生命哲学である」「我々の哲学は(中略)世界のいっさいの科学を指導する、最高の哲学である。諸君は、世界的指導者なのです」と。 
世界第一の妙歩を持つ青年は、新時代を開く、世界第一級の指導者なり! 
ここに、わが創価学会の大確信があります。「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし(P465)」と仰せの通りです(P8)
 
南条家は当時、地元の富士浅間神社の修復作業に、人手や寄付など、かなりの負担が課せられていたようです。余裕のないなかで命をつなぐ糧として届けられたであろうことを思い遣られて、芋の一つ一つを、大聖人は「珠のようだ」「薬のようだ」と、感謝されています。 
本抄をいただいた建治3年(1277)時光は数えで19歳、一家の地域を支える柱として、広布のリーダーとして、いよいよ本格的に活躍しゆく年齢を迎えていました。大聖人は、父親代わりのように、育み、励まされていきます(P10)
 
この「第六天の力」が、国土や人衆に及ぼす影響は甚大であり、暴風などに襲われたよりも騒々しく、国中が恐れおののく、釈尊および弟子、一族への迫害が、やりたい放題に行われ、あまりのひどさに、人々は「仏の御力であっても、悪人にはかなわない」とまで思ってしまった。提婆達多が蓮華比丘尼を殺し、仏の身を傷つけて血を出させても、仏の味方になる人は誰もいなかった。
こうした内容を通して、本抄では、魔は人々を分断して、立ち上がる心を奪おうとすると教えられています。魔は正義の人を嫉み、迫害されている姿を喜びとする。その結果、多くの人々の心が破壊されてしまうのです(P16)
 
仏とは、魔との戦い、勝利する人の異名です。
そして、この法華経において、釈尊は「猶多怨嫉・況滅度後」の原理を示します。仏滅後の悪世に法華経の敵が寄せる難は、釈尊の時代の比ではない。この一節は「況滅度後」の大難の中で、末法の民衆のために立ち上がる「本物の人」へ呼びかけている経文です(P17)
 
大聖人は、当時の世間からは「僻人」と見られている。 しかし、経文通りに戦い、経文通りに大難を受けられた。それこそが、仏から「聖人」とみられるにふさわしいことである、と仰せです。
反対に、世間から尊敬を集めている「智者」のような存在であっても、仏から「提婆のようだ」と思われたら、後生はおそろしいと仰せです。これは極楽寺良観らが法華経の行者の敵となり、民衆を苦しめている姿を示された御文です。 要するに、仏から見た基準は「仏のごとく法華経を談ぜん」「経文計にてはあひて候」と仰せられているように、どこまでも、如説修行。 仏の説いた経文の通りの実践があるかどうか、なのです。
そして、大聖人は経文を身読し、大難にあったことを「うれしく候なり」と仰せです。
経文身読の喜び、それは、万人成仏の願いを、この現実世界に実現する闘争に生きる喜びです。「仏のごとく」、すなわち、仏の使いとして同じ戦いをする喜びにほかなりません。一人の人間として最高の仏法を行じ、自分に縁した人の仏の生命を開いていく。これに勝る人生の喜びはないのでしょうか。
私たちで言えば、広宣流布の「拡大」の喜びです。
「対話」の力で、自他共の幸福を開き、地涌の使命を果たしゆく以上の生命の大歓喜はありません(P23)
 
他の御抄でも大聖人は仰せです。
「かへす・がへす人のせいしあらば心にうれしくおぼすべし(P1512)」くれぐれも申し上げるが、信心を妨げようとする人が制止してきたならば、これこそ内心では嬉しく思いなさい。
「人もそしり候へ・ものともおもはぬ法師等なり(P1510)」人が謗るであろうが、我ら日蓮一門は、それらを、ものとも思わぬ法師なのである。
世間がどう思おうが、また、悪口されようが、正法に照らして、自分自身の信念と行動に曇りがなければ、何を恐れることがありましょうか(P24)
 
大聖人が時光に教えられた法華経の行者の誉れは、そのまま、学会の師弟を貫く“背骨”の大精神です
この誉れの実践を貫いたからこそ、学会はあらゆる戦いに勝利し、発展してきたのです(P26)
 
「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり(P1539)」魔に付け入られた者たちは、一人を説き落して退転させ、それをとりかかりにして、多くの人を責め落とすのです。 その例として大聖人は、少輔房・能登房・名越の尼を挙げられます。この人たちは、「欲が深く」「心が臆病で」「愚癡で」「自分は智者だと傲る」者たちであったと仰せです。
魔に心を食い破られるのは、格好ばかりに、見せかけだけの信心の輩です。そうした者たちは、難を受けるとすぐに逃げ出し、今度は逃げた自分を正統化するために言葉巧みに他人を退転させるのです(P50)
 
さらに大聖人は--ゆえに心得違いをしてはならない。今、信心を捨てたならば、かえって人の、“笑いもの”となるであろう。味方のふりをして退転させようとする者たちは、殿を“笑いもの”にする輩だ。何か教訓してきたら、十分いわせておいて、「それより自分を教訓なさい」と言って、毅然と席を立たれるがよい。と仰せです。
大聖人は、時光に対して一貫して「堂々と確信を述べよ」「覚悟を決めよ」「怖じ恐れるな」という姿勢を教えられえいます。
「痛快に堂々と、邪悪な妄言を打ち破れ!」「今こそ、まことの時!誓いを果たせ!」
このように大聖人は、青年門下の心意気を示してくださいました。まさしく「創価青年学会」の戦う魂そのものです。
対話の核心は、勇気と勢いです。師子吼だけが、魔を打ち破れる。ゆえに青年は、強敵に立ち向かえ、困難に挑め、と示されているのです。強敵こそが、自分を強く鍛えてくれます。困難こそが、人間革命のチャンスなのです(P36)
 
人材を「育てる」とは、「会う」ととです。草の根を分けるように、会いに行くことです。座談会をはじめ、家庭訪問個人指導質問会懇談会--こうした地道な戦いが、一切の勝利の源泉なのです。
水の流れるごとく、地道にやってきた土台があるから、学会は勝ってきました。この方程式は断じて変らない。いな永遠に変えてはならないと申し上げたい(P60)
 
●“民衆よ、頭を上げよ! 団結せよ! 立正安国の叫びを上げよ!  勇んで対話の海に飛び込め!”--師が正義を叫び、一体不二で弟子に叫ぶのです。
日蓮大聖人は、この「師弟共戦の言論闘争」こそ、広宣流布を拓く原動力となることを、私たちに教えてくださいました。
「日蓮が如く叫べ」「我が如く戦え」と師匠が教えられた通りに行動するなかにのみ、永遠不変の勝利の大道がある(P49)
 
とりわけ日本国の諸僧は釈迦仏の弟子として出家したにもかかわらず、その根本の師匠と、その究極の教えである法華経を捨てて、阿弥陀仏の弟子のように振る舞い、人々に阿弥陀仏を祭らせとなえさせている、と喝破されているのです。
これは、根本と枝葉を転倒し、人々に謗法を犯させ、無間地獄へと堕とす大悪の行いです。
ゆえに「此の人人は善人に似て悪人なり、悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり」と厳しく指摘され、釈尊に敵対した提婆達多らより悪い大悪人だと糾弾されているのです。
“大恩ある主師親を間違えてはならない”との仰せは、在家の武士として、一人の主君に命懸けて仕える弥三郎にとっては、深く納得できる道理であったはずです。
この師匠の仰せ通りに語っていけば、念仏の僧などを相手にしても、彼らが阿弥陀仏を根本とする誤りを明快に破折していけるのです(P56)
 
本抄で、大聖人が念仏を破折されている切り口は、「仏は、なんのためにこの世に出現したのか」という根本目的を問い直されたものとも拝されます。そして、その目的とは、この世で苦しむ一切の民衆を救い切っていくことにほかなりません。
苦悩の絶えない娑婆世界で戦う困難さを分かったうえで、あえて最も不幸に打ちひしがれた人々を救おうと誓願を立てて出現したのが釈尊です。
そして法華経は、苦しみに満ちた現実世界を、そこに住む人々の心の変革から出発して、仏の国土としてふさわしい理想世界に変革しようという経典です。すなわち、浄仏国土であり、娑婆即寂光の現実です。
釈尊は、たとえ皆が身捨てても自分だけは永遠に娑婆世界を離れない、ここにいる人々と共に生き抜き、必ず幸せにしてみせる--との大慈大悲で、久遠以来、営々と民衆救済の大闘争を行ってきたのです(P57)
 
なぜ、それまでの苦難をあえて引き受けながら戦われたのでしょうか。それは「ただひとえに日本国のあらゆる衆生が大苦あうことを知ってあまりにも忍びない。放っておけないという嘆きからであった」と仰せです。
「嘆き」とは、苦悩を共にする嘆き、そして悩める人に寄り添う共感・同苦でありましょう。「抜苦与楽」の「苦を抜く」意義であり、甚深の大慈悲のお心が拝されます。
現在の苦しみだけでなく、衆生が未来に受ける苦悩にまで思いを致して、その苦悩を根本から断じて取り除きたいという、やむにやまれぬお心といえます。そのために大難を受けることを厭わない、恐れない、そして逃げない。これが仏法の慈悲の大闘争です(P63)
 
自分のほうが歪んでしまって法華経誹謗をしているのに、そのことに気づかず、かえって、大聖人の破邪顕正の言葉を“誤っている“と非難する。まさに“毒気が深く入って本心を失っている”姿です。
これが謗法の恐ろしさです。歪んだ人の眼には、真っ直ぐな正しい人が歪んで見えてしまうのです(P68)
 
師を持つことほど、大きな幸福はありません。
師とともに戦えることほど気高い誉れはありません。
その師への感謝こそが、正しい人生を歩み続ける源泉となるのです。
師恩に報じて、師と共に戦う。法華経は、「師匠によって救われる弟子」から、「師匠と同じ誓願に立って人々を救う弟子」への一大転換を説いていることを確認しておきたい。
言い換えれば、共戦の弟子が出現してこそ、法華経の民衆救済の思想が完成するのです。
本抄で大聖人は、弟子が広宣流布の主体者として「一人立つ」ことを願われたのではないでしょうか。また、弟子が「一人立つ」信心を継承しない限り、それぞれの直面している法難に立ち向かうことはできません。
「弟子たちよ、我が如く戦え!」「一人立て、勝利せよ!」そう叫ばれているように思えてなりません(P69)
 
※vol.2へ続きます。