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「勝利の経典御書に学ぶ11」池田大作
 
「勝利の経典『御書』に学ぶ11
池田大作
聖教新聞社
定価619円
125ページ
2014年122日 初版発行
 
2015年 平成27年 416日 読了
 
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【目次】
 
日女御前御返事(御本尊相貌抄)(御書全集1243ページ〜)
上野殿御消息(四徳四恩御書)(御書全集1526ページ〜)
椎地四郎殿御書(御書全集1448ページ〜)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義「勝利の経典『御書』に学ぶ」が待望の単行本化。全人類の幸福のために説き残された日蓮仏法の真髄に迫りつつ、人生と社会の勝者となりゆく御書根本の生き方を綴っている。
第11巻は日女御前御返事(御本尊相貌抄)、上野殿御消息(四徳四恩御書)、椎地四郎殿御書を収録。
名誉会長は、御書を拝しゆく信心の大道をこう語っている。
「立ちはだかる人生と社会の難問。それを解決するカギは、御書の中にある」
「御書には、海のごとき慈悲がある。限りない智慧があり、確信があり、戦う心が燃えている。宇宙と生命を貫く根本の法則が、御書に明快に示されている」――。
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義の「勝利の経典『御書』に学ぶ」の単行本化です。
 
20011年12月号か2012年2月号までの講義が収録されています。
 
以下、ポイントメモです。
 
当時も、否、現在においても、次のような考え方が根強くあります。
“現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある”と。
こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。  
そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。  
無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。  
“御本尊は胸中の肉団にいらっしゃる”この仰せの元意を拝するならば、大聖人が認められた御本尊は、実は自分自身の胸中の御本尊に目覚め、胸中の御本尊を呼び顕すための御本尊であるということです。
自分の外にある御本尊を拝んでいる時、全く同じ御本尊が自分の胸中にあるのです。自行化他の題目を唱えるわが生命に厳然と顕われてくるのです(P24)
 
●カズンズ氏は言います。
「人間の脳の百五十億個の神経細胞が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚異的なものではない。そこですべては信念から始まるといっていい。
 我々の信ずるものが、何よりも強力な選択なのである」と。
トルストイも、この「信」の偉大な力を強調してやみませんでした。  
「戦いに勝つのは、勝つと確信している者だ」「幸福になるためには、幸福の可能性を信じなければならない
「信」とは、人間が生きるために不可欠な土台であり、その強弱が人生を左右します(P36)
 
●まず第一に「父母に孝あれ」これは、最も身近な父母への孝養です。
口うるさい親も、また、古い考えに固執して若い世代に理解の乏しい親も、その根底にはこの幸せのためならば、自らを犠牲にして顧みない切実な思いがあるのです。
また、それを子どものほうから一歩進んで、汲みとろうとするとき、親の苦労を理解できる豊かな人格が、飛躍的に深まり始めるのも事実でしょう。
いずれにしても、親から子へ、心の奥深くに刻まれる傾向性は善悪とともに「連鎖」します。そこに大事なのは、“マイナスの連鎖”を、人間の善性を無限に引き出す“プラスの連鎖”へと転換することです。その変革をも実現できる底力が、誰人の生命にも備わっていると、仏教は教えています(P56)
 
第二に「主君に忠あれ」とあります。これは、地域・社会において「信頼」で勝っていく心構えを教えられていると拝されます。
仕えている主に対し、「後ろめたい」不誠実があってはならない。認めようと認めまいと、誠実に「陰徳」を積めば、やがて必ず「陽報」が輝いていくのです。
青年にとって、勤めている会社のために苦労しているのに、評価もされず、報われないと思うこともあるかもしれない。しかし、信心根本に、研究と努力を重ねて力をつけえいけば、必ず業績もあげていける。信用も増していきます。信心を根幹として誠実に前進していけば、福運がつき「心の財」が積まれます。「身の財」も輝いていく。「誠実」と「信用」こそ、青年の財産です。 日蓮大聖人は「観心本尊抄」に「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか(P254)」と仰せです。
「信心即生活」であり「仏法即社会」です。今いる場所で、どうすれば勝利できるのか。ありありと如実知見できる智慧の太陽を昇らせるのが、信心です(P58)
 
●戸田先生は語られました。
本当の偉さとは、たとえ人にしてあげた ことは忘れても、してもらったことは一生涯忘れないで、その恩を返していこうとすることだ。そこに仏法の光がある。また人格の輝きがあり、人間の深さ、大きさ、味わいがある」と。
これは、私の六十余年の信仰の結論でもあります。
報恩に徹し抜いた人、忘恩に堕ちた人--それこそ、多くの人生を私は見つめてきました。正しく恩を報ずる人は、皆、大勢の人から慕われ、また、信頼されていた所願成就の大満足の人生を送っていきます。御聖訓に照らして、報恩を貫き通したその生命の輝きこそが、三世に崩れざる福徳となっていくに違いありません(P71)
 
●創価の父・牧口先生が「信者」と「行者」を厳格に立て分けられたいたことも有名です。牧口先生は獅子吼されました。
「魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」
すなわち、自分だけの利益を願い、三障四魔との戦いのない者は、ただの「信者」にすぎないと喝破されました。広宣流布のために菩薩行に励み、三障四魔と戦っていく人こそ、真の「行者である」教えられたのです(P99)
 
●私の願いは、ただ一つでした。
それは、“戸田先生は折伏の師匠である。ゆえに、折伏の報告をして師匠に喜んでいただきたい”その思いで戦いました。
そして、“会員の一人一人が「仏」である。この仏の皆さまを尊敬し、存分に戦える環境を作ろう。そのために必要なことは、何でもさせていただこう”。この決意で戦いました。
ともあれ、妙法の偉大さ、信心の素晴らしさを、一言でも語っていく人は、一人ももれなく仏の使いです。妙法を語ったこと自体、仏の使いとし無量の功徳を積んでいるのです。生々世々、福徳に満ちた生命として、赫々と輝いていくことは間違いありません(P106)