第138回『可笑しカンパニー』 「何もしない」ができない私たち | こじにずむ日記

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千葉大学演劇部 劇団個人主義のブログです
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 初めまして。劇団個人主義1年、髙橋雷と申します。人の目にさらされる文章を書くことができるせっかくの機会、ということで大学入学してからここ数か月の間に考えていたことを書きたいと思います。スーパー長文&恣意的な解釈も多々あると思いますが、割り引いて読んでいただけると幸いです。

 さて、私が高校生の時は途中から部活に行かなくなり、なんとなく短歌を詠んだり読んだりしていました。そのなかで私は漠然とした不安を感じつつ何かに突き動かされるように、短歌に魅惑されるように言葉をいじくりまわしていました。その気持ちに苦しめられることさえもありました。今は個人主義に所属しとても楽しく活動できていますが、ふと普段の生活の中で高校生の時に感じていたようなそのような気持ちになることがあります。この気持ちはなんなのでしょうか?なぜ短歌を続け、そして今は演劇に焦点を変えながらも活動をし続けるのでしょうか?



 ここからは、引用をして私なりに解釈していこうと思います。みなさんはソール・ライターという写真家をご存じでしょうか。「カラー写真のパイオニア」と称されここ数年で三度展覧会が開かれており現在注目されている芸術家の一人です。彼についていくらか記事を調べてみると彼の色彩感覚や世間になびかない生活、というようなその独自性と内省的な性格にフォーカスして書かれています。そんなマイペースに自分の感性のままに美を追い求め続けた彼ですが、その写真にささげられた人生の中でこのような言葉を残しています。
 
 I have a great respect for people who do nothing.
 <私が大きな敬意を払うのは、何もしていない人たちだ。> 
 /ソール・ライター,『ソール・ライターのすべて』より.
 
 彼は写真家や身近な人ではなくではなく、ましてや他の芸術家などではなく「何もしていない人」に対して敬意を払っている、と述べています。しかし、彼は写真家として努力する自分自身や「何かをしている人」を否定しているわけではありません。おそらく彼は、心に沸く興味に呼応して作品を作ることをやめることができない彼自身を省みてそのように述べたのではないか、と私は思うのです。
 
 このように考えると彼とは対照的な、ただ生きることのみに目を向け、発露しようとする興味を理性下におき、最低限の賃金を稼ぎ慎ましく生活する「何もしていない人」が想定されます。もしそのような人物がいるとするならば、そんなこと到底できないであろう私(もしかしたらこれを読んでくださっているあなたも)はその人に敬意を払わずにはいられないようなある種の強さを感じるだろうと思います。


ソール・ライターのセルフィ―



 もう一つある作品を引用したいと思います。『少女終末旅行』という漫画・アニメ作品です。文明が崩壊した「終末」世界をチトとユーリの二人の少女が旅をするお話です。作中では旅をする彼女たちの日常が中心に描かれますが、途中の回想シーンでチトとユーリと「おじいさん」と二人から呼ばれる老人が一緒に暮らしていた過去が明らかになります。その過去のシーンはおそらく戦時中であり、彼女たちの危険を察したおじいさんは二人を逃がそうとします。その際、おじいさんは彼女たちに「上」を目指すように言います。作中での崩壊前の文明は私たちのインフラに比べてより高度化されており、何層にもわたる階層型社会が形成されています。おじいさんはそのインフラの最上階を目指すように伝えます。


旅をするチト(右)とユーリ(左)

 私はこのおじいさんの行動には彼女たちを想う気持ちが現れている箇所であるように思えます。仮に二人が戦争を生き延びたとして、人類が衰退しふたりぼっちになってしまい文明崩壊によってほかにやることがなく無目的に、ただ生きるために生きる世界になったとしたらそれは彼女たちにとってあまりも厳しくさみしいものだろう、と彼は考えたのでしょう。だから彼は「生きる目的」として「上」に行くように言ったのだろうと私は思います。



 もう一度自分自身のことに戻ってきますが、私と二つ解釈に共通することは何かをしなければ生きていくことはできない、ということでしょう。高校生のときの私も、なにも活動せずにぼんやりと生活することに対する恐れがあったのだと思います。その気持ちが強く関与して短歌という「興味」、「目的」に陶酔していったのだと想像できます。しかも、高校生特有の自意識が誰しもの心のなかにあることを考慮すればそれはなおさらでしょう。その気持ちは大学生になった私の中にもまだ存在し、時々私のことを捉えてくるのだと思います。

 私に限らず誰しも多かれ少なかれ「何もしないことへの恐怖」を抱えているのでしょうか?私がソール・ライターの言葉から見出した「何もしていない人」のようなある種の強い生き方は私たちには可能なのでしょうか?おそらく、それはとても困難なことでしょう。私たちは「何もしない」ことができません。

 宝石を何とか磨いて生きてたの光手の中収まらないの /髙橋雷



 ひとつ結論のようなものがでましたがもう少しだけお付き合いください。さて、このような陳腐ともいえそうなこの結論を述べるこの文章に価値はあるのでしょうか?もしかしたらそんなことは当たり前だと思っている人もいるかもしれません。

 しかし、既知な事実であっても、私がこの文章で試みていることは相対化であり客観視です。「何もしないこと」ができない自分自身をしっかり知るということです。「何もしない」ことができない私たちが成長していくには、やはり「何かをする」しかありません。しかし、その際「何かをしている自分」を支柱にするのではなく、「何もしないことができない自分」を成長前段階として設定し、今行っている活動に対し自分は何を求めているのかに耳を傾けていくことが大切なのではないかと私は考えます。

 もちろん、その人にとっての活動の楽しみや活動にその人のアイデンティティーを見出すといった行為などを否定するわけではまったくありません。ただ、そのような側面をその人なりに発見することで成長の可能性が見いだせるのではないかと思っているのです。

 私はたくさんの人の協力のおかげで大きな一つの劇に関わることができる立場にいます。だらだらと自分の頭の中を述べましたが、そんなことどうでもよくなるくらいとても楽しく個人主義の一員として参加できています。役を演じることを全力で楽しみ、一方で私がこの活動になにを見出そうとするのかをゆっくりと考えていければ、と思います。

 ピアノソロに明かりを向けて僕たち袖で子供みたいに大事にはしゃぐ /同

髙橋雷

 

 

 

以下、公演情報です。

劇団個人主義第138回公演
『可笑しカンパニー』
※本公演は当日観劇/後日配信の2つの形態で上演いたします。いずれも予約が必要です。

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