どうも〜今回n
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> 突然の死 <
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劇団個人主義22年度入学生 卒業公演『この町に手紙は来ない』
日時:2月28日(土)12:30〜/17:30〜、3月1日(日)12:00〜/16:30〜
会場:北池袋新生館シアター
料金:無料(フリーカンパ制)
来場予約フォーム:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeqQQHbHxaHDZs5--PuwKjEQBFlJq9XvihgPT-ntvrBPc75xA/viewform
―生きるための姿勢を教えてくれた大学時代の恩人たちへ―
市場は大きな口を開けて待っている。
市場にとって最も扱いやすい形で、獲物が入ってくるのを。
新自由主義の時代において、人間社会のあらゆる活動は市場取引の枠へと回収されつつある。私たちは、市場によって設定された価値基準を用いて物事を判断し、その基準があたかも自明のものであるかのように受け入れている。個々人の価値観が一般化され、予測可能なものとなることは、市場、そして国家をはじめとするルールメーカーにとってきわめて都合がよい。消費者の嗜好や行動が類型化されていれば、需要は把握しやすくなり、その単純化された需要を満たすサービスを供給すればよいからである。そこでは、個別具体的な人間を理解するための熟考は不要となる。
こうして私たちは、一人の人間としてではなく、一人の消費者として生きることを要請される。あるいは、そのような存在として把握される。市場にとって消費者は、生存してさえいればよい。サービスの供給先として、需要を発生させる存在として生きていればよいのである。そこでは、生き方は自ら決定されるものではなく、外部の合理性によってあらかじめ整形されている。
私はこの状態を、「生きている」とは呼びたくない。たしかに生命活動は維持されている。生存もしている。しかし、個々の存在が、自分以外の誰かにとって都合のよい一般的形式へと押し込められているとすれば、それは本来の意味で生きているとは言えないのではないか。生きるとは、本来、より多くの喜びと力を伴う営みであったはずではなかったか。
社会に出る前段階としての学生時代。私含め皆は、きっと多くの偏見にさらされた。そして多くの人を偏見で蹂躙した。集団の中で生き延びるため、周囲に合わせざるを得ない局面は確かに存在する。自らの安全と安心を守るために、偏見という暫定的な拠り所を必要とした場面もあっただろう。
このような状況は、ホッブズが述べた「万人の万人に対する闘争」に近い。相互不信のなかで、人間は自己保存のために判断を外部へ委ねようとする。ホッブズはこの闘争状態を終わらせるため、自然権を強大な国家に委ねるべきだと説いた。利己的になり得る人間は、合理的なシステムによって統制された方がよいという発想である。
ここで言う「国家」とは、必ずしも政治を担う国家のみを指すわけではない。私たちが判断を委ねるあらゆる存在―友人、教師、親、制度、あるいは社会的常識を含んでいる。私たちは、小さな判断は自ら下すが、大きな決断になるほどリスクを含めて総合勘案することを止め、責任を回避し、他者やシステムに判断を委ねる。その範囲は無自覚のうちに拡大し、やがて人生の重要な局面までも外部に依存するようになる。
そうして私たちは、人生を他者に委ねることに慣れすぎてしまった。偏見を持たない代わりに、他者を深く理解しなくても構わないとする態度が生まれる。表面的に他者を傷つけないよう配慮しつつ、判断そのものは外部に委ね、本質的理解に至る前に関係から撤退する。
偏見は他者への押し付けという過剰であり、判断を合理的システムへ全面的に委ねることは責任からの逃避という過剰である。いずれも極端であり、あらゆる問題への応答としては稚拙だ。その結果として現在あふれているのは、パッケージ化された価値観と類型化された人間像である。個々人は一般化された群れとして把握され、差異は市場にとって扱いやすい形に整理される。こうして私たちは、自らの個性を失ったまま、市場の内部へと回収されていく。
市場は大きな口を開けながら、一般化され、予測可能となり、代替可能となった私たちが、自ら考えるという対抗機能すら失って、むしろ自発的にその内部へ取り込まれるのを待っているのである。
個性を失ったまま流されるように判断することは、不確実性や不可知性にあふれる社会を生きるにあたっては危険なことだ。よくわからないものが目前に現れることが今までも、これからも頻繁に起こるだろう。分からないものを恐れて人に任せて適当に選択していったら、とんでもなく恐ろしい方向に足を踏み入れていた、なんてことは、すでにご存じのように歴史の中でいくつも起こっている。しかも現代は、お利口な消費者を量産するために、人に任せて適当に選択することを推奨するルールメーカーに溢れている。
さて、どう生きようか。
”今の自分の専門分野だけではなく、他の専門分野を持つのが良い。専門分野を広げていき、自分の頭の中に知のネットワークを構築していく。”
私の恩師がそう述べていた。
一つの専門知に固執しすぎると考え方が円熟しない。偏った考えに凭れ掛かからず、一つ、また一つと専門分野を増やしていき不断に更新し続ける余地を持つ。そうすれば、不確実な世の中に生きる中で未知の考えに遭遇した時にも、危機として対峙するのではなく好機として俯瞰できるようになると。またその恩師はフレーミングという言葉も用いた。意志決定を大きく変化させる物事の切り取り方のことである。強みとなる専門分野を用いて、組み合わせながら様々にフレーミングしていく。
すなわち、複数の専門分野とフレーミングが現代を生きる術だということになる。
自分でいうのもおこがましいが、私の専門分野は演劇だ。
では手始めに、二つ目の分野に何を設定したか。
それは不条理である。
私は不条理を、価値観が揺れ動くその瞬間―自分が信じていた当然が他者によって問い直され、世界の意味が立て直され、あるいは再構築を迫られるその過程において立ち現れる経験だと定義づけた。ここから分かる通り、不条理は不確実性への向き合い方それ自体を表した概念ともいえる。不確実な現代を生き延びるために、その不確実性自体を専門分野に設定して敏感になり、観察してフレーミングしよう、というややもすればレトリックを用いたかのようになってしまったが、許してほしい。しかもこの不条理は演劇の過程で聞き及んだ概念であり、二つの専門分野はズブズブな気もするが、これも許してほしい。
どうもこの二つは相性が良い概念のようだ。
私は、ありがたいことに演出として演劇に関わる機会が多かった。
演出の仕事の要は、だれも見向きもしないか、あるいは潜在している言語(ここでいう言語は、肉体的なものや精神的なもの、とにかくあらゆるものである)に形を与える、人間と概念との新鮮な出会いを創出することにある。いわば人間と概念のマッチングアプリを運営する仕事だといっても差し支えない。形を与える時には常に言葉を用いる。だから演出は言葉に最も敏感でなくてはならない。
言葉に敏感に、とは常に言語や概念を疑うことを表す。この概念にはほかの側面がないか、額面通りに受け取られている意味以外にも何かがあるのではないか、周縁にある意味を全て掬い上げんとする勢いで概念をこねくり回す。するとその概念は実は様々な言葉で説明できることに気づく。場合によってはもともと信じていた概念とは全く違う結果になるかもしれない。これはまさに、演劇に参加する演出としての役割を果たそうとして不条理を求め、不条理に直面した一幕と捉えられる。
不条理はまさに演劇活動を助けてくれる専門分野なのである。
演劇と不条理を専門分野として世界を見た例について残しておこう。
今回私が執拗に疑った概念は“愛”である。愛という言葉を用いれば、どんなに歪な人間関係も傍から見ればたちまちウツクシク収束する、印籠並みの伝家の宝刀であり、道徳における聖域であるが、あえてここに切り込んでみた。
そもそも愛とは、人を大切に思いやる気持ちだというイメージがあるが、では人を思いやるとは何か。人を大切に思うこと、人を助けること、支えること。これらは一見相手にとって良いことのように見えるが、相手がそういったものを望んでおらず、それどころか迷惑だとしたら、どうか。私はあなたを愛している、だから近くで支えていたい。だからぬくもりを感じたい。だからあなたに触れたい。これがまったく、“愛する側の勝手”だとしたら?
愛とは人を大切に思いやる行為だ、しかし無条件で幸福をもたらす感情ではない。
愛による成果は一方からでしか正しく測りえない、だとするならば、
愛とは究極のエゴではないのか?
一般的な概念を疑った先に異なるフレーミングで愛を見た私は、再び新たなフレーミングを模索する。
いやいや、それでも愛には、相手を大切なものとして扱おうという努力がある。相手のために自分を用いたい、今まで人生の主役は自分だったかもしれないけれど、自分と同じくらい大切な人に自分の人生を懸けたくなった。自分の人生のパラダイムを引き起こす大きな潮流。何がその人にとっての幸福かは分からない。それでも大切な人が幸福でいられるように自分のあり方を模索する。探求し続ける。
ならば、愛とは苦しむ行為でもありうるのだ。自分が相手を思いやり尽くせないことを自覚して、ともするとそれが相手を苦しめることも自覚して、それでもなお相手に寄り添っているために努力の限りを尽くす。
愛とは、まことに重厚な概念だ。抽象的な理解のままにしておくには、あまりにも惜しい概念だった。
このように突き詰めて考えて曖昧な概念を言語化していく作業に疑問を投げかける人がいる。それは言語化を行う過程で、なにかしらの要素は確実にこぼれ落ちていき、曖昧な理解の状態では存在していた自分の素の感動、無意識の感性を失ってしまうのではないか、という批判である。これには一部同意するが、ある点では反論する。
言語化しておくことは、無意識の自分の選択をより有意義にしうる。物事を突き詰めて考えることで、また新たな感情を想起させるきっかけになる。説明し尽くすためではなく、一義的な感情の質を高め、獲得する情報を豊かにするために言語化をしているのだ。
言葉にすることのゴールは説明し尽くすことでは決してない。概念を説明し尽くそう、というのはできることを想定する時点で傲慢な考えだ。私は神にはなれない。だからこそ決めつける前に丁寧に物事に触れて、視界を拡張して、敬意を払って見るための素養を身につけなければならない。感性を体操することで、無意識の及ぶ範囲も広がっていく、というのが私の考えだ。
では、そもそもなぜ突き詰めて考えなくてはならないか。そんな苦行に身を置く必要などないではないか。
それに答えるためには、やはり生きることは何か、ということから始めなければならない。
人間はいずれ自分が死ぬことを知っている唯一の可哀想な動物だ。だからかつては死に希望を見出していた。宗教が権威を誇っていた時代、死後の世界が良いものであるように、神に認められるために善行を重ねたものだった。しかしある時から神の価値が”暴落”した。すると人間はその生にこそ意味を見出し、生をより豊かにすることが人生の目的となった。その究極系が資本主義、果ては新自由主義である。物事すべてが交換可能な価値になり得、交換さえすれば、どんな幸せ(恣意的に形作られた)も手に入る。
いつだったか、インフルエンサーの勧めている物が手に入った!と喜んでいる人を見かけた。自分が何かを欲しくなったから買うのではなく、購入するサービスの選択を他人に任せて物を買うのだ。欲求すら自分の手元になく、外側から喚起されたものならば、彼らの個性はどこにあるというのだろう。人により考えられた私の幸せに、生はあるといえるのか?
もっと自分で考えた人生を生きたい。
演劇という濃密な芸術空間ではそのためのエクササイズができる。
演劇においては、安易な表現はすぐに分かる。とにかく物事と言葉に敏感に、感性をずっと尖らせて、あらゆる感性と価値観をかき集めて自分の視野をぐっと広げる。それが満足にできた上で、お客様のコンディション、スタッフのコンディション、役者のコンディション、役者同士のコミュニケーション、演出自身が今まで築いてきた人間関係が全て完璧に組み合わさった瞬間に、美しい表現が生まれる。なかなか、いや到底できることではない。それでも喰らいついていく。出来ないことを嘆き、酷ければ捨て置くのではなく、出来るためにはどうすれば良いかを考える。そうでなければ、誰一人として満足することはできないのだから。
ひたすら答えのない問いに向き合い、ただ誠実に答えを出す。それを試行し、また答えを変容させていく。まるで振り子のように、一つの位置が決まるまで運動を永遠と繰り返す。
演劇を構成するものには、何一つ予定調和はない。創造的な表現も、演ずる役者の心も、会話も、全てが程度の差はあれど予測不可能だ。そこに自分の言葉を使ってコミットしていく。自分の表現を使って受け止めて、次の表現へと受け渡す。一つ一つに自分が信じられる答えを出して紡いでいく。そして、確かな表現のネットワークを作る。どんなに予測が出来なくても、不可知なことに溢れていても、藻掻いて足掻いてその途方もない努力をする。
演劇と世界は、本当に多くの不条理にあふれている。しかし不条理に立ち向かう術は二つとも同じである。芸術を通して考える素養を身につけ感性を豊かにすることは、私たちが自らの人生の舵を取りながら、人間の一般化が大好きなルールメーカーが跋扈する社会を生き抜くための強力な武器だ。自分の人生に立ちはだかる不条理を自分の言葉で理解し、判断の自由と、リスクと、責任を同時に引き受ける。これこそが生きることではないだろうか。
私はそのように生きたい。生きようとすることが苦しく、あまりにも苦しいゆえに私を潰してしまうとしても。生物的な、肉体的な生ではなく、人間の部分を、心の生を求め続ける。これは一生涯かけて続ける勝負だ。私のことを一般化しようとするものへの宣言だ。
とにもかくにも、私は4年間で専門分野を複合してフレームを作った。そのフレームはかなり不恰好で、表面が凸凹している。私よりずっと優秀な人が作り出す意匠を凝らした滑らかで美しいフレームではない。それでも私は、私のフレームで物事を見てみる。すると醜かった凸凹が、まるでプリズムのように物事を反射させた。ただ見るだけでは気づかなかった色とりどりの世界がそこにあったのだ。
不条理とともに生きよう。苦しんで生きよう。
ありがとう、一緒に苦しんでくれた人たち。私を生かしてくれた人たち。重要なことを、愛を持って教えてくれた私の恩人たち。
何やら世の中がきな臭くなってきた。人間的なものがないがしろにされて久しいが、ここからどうなるか。人間として生きる幸福と市場を満たす豊かさが拮抗している時代の節目に、私の考えを残しておこうと思う。どんなに歪でも構わない。冷めた目で見られても構わない。
現時点での私の思考のネットワークの大半を占める考えを、蚕が繭を作るように吐き出す。
芸術を、その意味を、それを担う機会をいただいた表現者として、ここに残そう。
今の私はきっと、今の私を作った4年間の思い出とともに、一年もすれば跡形もなくいなくなるだろう。
その前に。
4年間の演劇部での活動は、刺激的だった。とにかく楽しかった。本当はそんな言葉では到底足りないのだけれど、もう終わらせる。最後は最後。区切りは区切り。卒業は卒業。
最後はそれらしく、私が好きな一節を引用して締める。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
風立ちぬ。いざ、生きめやも。
公演情報再掲
劇団個人主義22年度入学生 卒業公演『この町に手紙は来ない』
日時:2月28日(土)12:30〜/17:30〜、3月1日(日)12:00〜/16:30〜
会場:北池袋新生館シアター
料金:無料(フリーカンパ制)
来場予約フォーム:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeqQQHbHxaHDZs5--PuwKjEQBFlJq9XvihgPT-ntvrBPc75xA/viewform
学問に深く入り込むと、自分の思考は誰かの思想の焼き増しだと思うことが多々ある。これすらも、「間テクスト性」という概念により既に説明されていることだ。
考えれば考えるほど、私の思考は誰かの思考の二番煎じ。全く、嫌になる。やめたくなる。投げ出したくなる逃げたくなる。不甲斐ない私の正気を彼方からでも取り戻してくれるのが演劇であり、仲間たちだった。
答えを出すのを諦めているときに、絶対的な答えを出してくれる人にすがる。ぎりぎり。限界。それでも私はその人にだけはすがってはいけないと思う。答えを出す前に、その答えが最良であるよう共に悩んでくれる人を大切にしたい。
座組に参加してくださった皆様
邪智暴虐な私の演出に付き合ってくれてありがとうございました。
どんどん増える収集や編集を確実に、そして遊びを持って熟してくれた音響、荒唐無稽な案を堅実に落とし込んでくれた照明、多量な仕事を、雰囲気を守りながら積み上げた舞台美術、微に入り細を穿ってくれた小道具、創造を率先して担った衣装、発想力と実務で多くのお客様を動員した宣伝、あたりまえを確実に用意してくれた制作、仕事に目を配り、仕事を管理しブーストをかけてくれた監督部、本当にありがとうございました。
そして後輩のAくん、Kくん、Kさん、Nさん、Tくん、貴方たちがいなければこの舞台は完成しませんでした。時間を縫って稽古に来てくれてありがとう。
さらに仕込みから本番まで力を貸してくれたTさん、Kさん、Sさん、Nくん。朝早くから遠くまで付き合ってくれてありがとう。演劇は多くのプレイヤーで成り立たっていることを再び痛感いたしました。
役者の皆様、一緒に苦しんでくれてありがとう。その苦しさを楽しめるように舞台上でも、日常でも生きられることを祈っています。
いやはや、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
人の思考の系(ネットワーク)なんて、知ったことではありませんよね。全て複雑に絡まり合っているその様を、私の恩師や数々の思想家の意見をリスペクトを前提にパクりつつ真似事をしながら、少しでもお伝えしたいというエゴが働いてしまいました…とりあえず、系という字の通りに思考を糸にして絡めて、繭を作りましたんで、大学生活最後の日まで、しばし春眠と参りましょう。4月には、どんな変態が誕生しているのか、楽しみです。
佐藤佳乃












