『天台小止観』は、その昔、天台大師が説かれた「禅」(止観(しかん))についての指導書です。
『天台小止観』の易しい解説本『微笑む禅』と読み合わせるために、関口真大さんの訳文を書き留めておくことにしました。
『天台小止観』
訳/関口真大
略して矇(もう)(=道理に暗いこと)を開き
初めて坐禅止観を学ぶ要門を明かす
天台山(智)顗禅師 説く
斎国沙門浄弁 私に記す
第十章 証果
われわれがもしこのように止観(しかん)を修習するとき、すべての物事はみな心から生じたものであり、因縁の和合から生じたもの、虚仮(こけ)なるものであって、実体のあるものではないから、空(くう)であると識(し)れば、すべてが空(くう)であるということをすでに知っているのであるから、すべてのものごとの名称による相貌(すがたかたち)を見ることはない。これがすなわち体真(たいしん)の止(し)である。
そのときに、上には求むべき仏果があることを見ず、下に済度すべき衆生も見ない。これを*従仮入空(じゅげにっくう)の観を名づけ、または二諦観(にたいかん)と名づけ、または*慧眼(えげん)と名づけ、または*一切智(いっさいち)と名づける。
しかしもしこの観にとどまり住するなら、*声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)といわれる人の悟りの境地に堕(お)ちることになる。
そこで法華経には、
諸の声聞(しょうもん)等
みずから歎いていわく
われらもし
仏国土を浄め
衆生を教化することを聞いても
すべて欣(よろこ)び楽(ねが)うことがなかった
所以(ゆえん)はいかん
一切の諸法は
みなことごとく空寂(くうじゃく)で
生ずることなく滅することもなく
大なく小なく
*無漏無為(むろむい)であると
かくのごとく思惟(しゆい)して
喜楽を生じなかったからである
といっている。
この故にまさに知るべし、もし空(くう)を見て正位に入るならば、その人はついに*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心を発(おこ)すことはできない。すなわち定(じょう)力だけが多いので、仏性を見ることができないのである。
菩薩がもし一切の衆生を済度(さいど)し、一切の仏法を成就せんがためには、まさに空(くう)にとらわれてはいけない。
そのときにはまさに*従空出仮(じゅぐうしゅっけ)の観を修すべきである。すなわち心性は空(くう)であるとはいっても、縁に対するときにはまたよく種種の諸法を出生する。それはなお幻化のごときもので、定実なるものはないけれども、また見聞覚知できる相貌(すがたかたち)があって、差別は不同であると観ずべきである。
われわれがこのように観ずるとき、すべてのものごとは、畢竟(ひっきょう)して空(くう)であると知っても、その空のなかでよく種種の行を修し、空のなかに樹を種(う)えるように、またよく衆生の性格や欲望を分別するであろう、人の性格や欲望は無量であるから、説法もまた無量になる。
もしよく無量の弁才を成就すれば、すなわちあらゆるの衆生を利益することができるであろう。これを*方便随縁(ほうべんずいえん)の止(し)と名づける。またこれ従空出仮(じゅぐうしゅっけ)の観である。また*平等観と名づけ、また*法眼(ほうげん)と名づけ、また*道種智(どうしゅち)とも名づける。
しかしこの観のなかに住すれば、智慧のみが多い。仏性を見ることはできるのであるが、しかしまだ充分に明了ではない。
菩薩がこのような二種の観を成就しても、なお方便の観門というべきであって、正観ではない。故に仏は、
前の二種の観を方便の道とし
従仮入空と従空出仮の二種の空観によって
中道第一義観に入ることを得て
二諦(にたい)を双べ照らし
心心が寂滅して
自然に*薩婆若(さばにゃ)の海に流入する
といっている。
菩薩がもし一念のなかに一切の仏法を具足しようとおもえば、まさに*二辺の分別を息(や)めるところの止(し)を修習し、中道の正観を行ずべきである。
正観を修習するとは、どういうふうにすることか。もし心性は真なるものにあらず仮なるものにもあらずと体得すれば、真仮を縁ずる心が息(や)む。これを正と名づける。心性は空なるものでもなく仮なるものでもなく、しかも空仮の法を壊(こぼ)つものでもないと観察するのである。
もしこのように観察することができれば、すなわち心性において中道に通達し、まどかに空・仮の二つの真理を照らすであろう。
もし自分の心のなかで中道の二諦を見れば、すなわちすべてのものごとの中道の二諦を見、また中道の二諦にもとらわれない。決定の性は不可得であるからである。これを中道の正観(しょうがん)と名づける。
中道の偈に、
因縁から生じたものごとは
われすなわち空なりと説く
または名づけて仮名(けみょう)とする
またこれ中道の義なり
と説いている。
深くこの偈(げ)の意味するところをたずねれば、ただ正観の相がはっきりと理解できるだけでなく、また兼ねて前の二種の方便の観門を明らかにしている。まさに知るべし、中道の正観はすなわちこれ*仏眼でもあり、また*一切種智ともいう。
もしこの観に住すれば、すなわちこれ禅定と智慧の力は等しくして、明了に仏性を見ることができる。
すなわち大乗に安住し、行歩は平正で、その疾いこと風のようであるなら、すなわち自然に薩婆若(さばにゃ)の流入する。
もし薩婆若の海に流入すれば、すなわち如来の行を行ずるであろう。
もし如来の行を行ずれば、すなわち如来の室に入るであろう。
もし如来の室に入れば、すなわち如来の衣を着るであろう。
もし如来の衣を着れば、すなわち如来の座に坐るであろう。
もし如来の座に坐るなら、すなわち如来の荘厳(かざり)をもって自分を荘厳(かざ)ることになるであろう。
もし如来の荘厳をもって自分を荘厳るなら、すなわち*六根清浄(ろっこんしょうじょう)を獲得するであろう。
もし六根清浄を得れば、すなわち仏の境界に入るであろう。
もし仏の境界に入れば、すなわち一切のものごとにとらわれることがなくなるであろう。
(つづく…)
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この章は、『天台小止観』の総まとめ、肝の部分ですから、何度も何度も読み返し、一つ一つの言葉の意味深さを読み取っていきたいところです。
放送大学で専攻している心理学の勉強も、いよいよ大詰めを迎え、なかなか『天台小止観』まで手がまわりませんが;;少しずつでも進めていきたいと考えています。
「天台小止観」をなるべくやさしく解説してくれている『微笑む禅』ついてもまとめてありますので、そちらと合わせて読んでいただいたら、もう少し分かりやすくなるかもしれません。
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