「天台小止観(てんだいしょうしかん)」は、今から1400年前に、中国の天台大師が「止観(しかん)」(坐禅の一種)について講義したものを弟子の一人がまとめあげたと言われています。

 

 坐禅のやり方を具体的に教えた書物として歴史的には最も古いものであり、内容的には一番くわしく書かれたもので、それ以後に中国や日本でできたほとんどすべての坐禅の指導書は、例外なしに直接または間接の影響を受けている─と研究者は述べています。

 

 しかしその教えは、修行僧でない一般の私たちにとって実践することがなかなか難しい内容です。

 

 松居さんは、そんな、とっつきにくい「天台小止観(てんだいしょうしかん)」で天台大師さまが伝えたかった真意を、私たちにも分かりやすいように優しく噛みくだいて解説してくださっています。

 

 後々、読み返すことができるように、その内容をブログにまとめておこうと思いたちました。

 

 もしも、思索の助けとして、このブログがどなたかのお役にも立てるのであれば、幸いです。

 
 
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 “天台小止観(てんだいしょうしかん)の止(し)とは、「感情を波だたせないこと」であり、観(かん)「思考力を正しく働かせること」です。”
 
前回までは、
 
【第一章】
止観(しかん)の練習の前に準備する五つのことがらのうちの一つ、
一、「持戒清浄(じかいせいじょう)」が「ほほえみを大事にする」ということであり、頭では分かっていてもそれがなかなかできないという人は、体と心のしこりを解きほぐすことを繰り返し続けていけば、必ずほほえむことができるようになる。
二、「衣食具足(えじきぐそく)」というのは直訳すれば「きものとたべもののととのえ方」にすぎませんが、その根本の精神は、『我が物を我が物と言わず』という暮らし方と、『無条件で無限に助け合う仏道修行のグループ』を作ること…この二ヶ条に尽きる。
三、「近善知識(ごんぜんちしき)」はその修行の援助者や同志はむしろ修行の指導者として充分に尊敬できる人物をえらべ
四、「閑居静処(げんごじょうしょ)」は、できるだけ、静かな所で修行をしろ」ということですが、これも、なるべく人間とは縁の遠い、大自然と向かい合って修行すべきだ─ という意味が含まれていると思う─。
五、「息諸縁務(そくしょえんむ)」は、俗世間な仕事やつきあいその他のことに、少しの間関わり合わない
 
【第二章】
「呵欲(かよく)第二」
 見たい聞きたい嗅ぎたい味わいたい触りたいという欲望を捨て、あらゆるものごとをただそのままに認め、そこに好きとか嫌いとかいう感情をつけ加えない練習をくり返し、その純粋な知覚をもとにして、現在自分にとって本当に必要なものは何か…という正しい判断をその都度くだす訓練をする─
 
【第三章】
棄蓋(きがい)第三」
 心を覆いかくしている「ふた」ー貪欲(どんよく),怒り恨み,ぼんやり居眠り,フラフラもしくはクヨクヨ,疑い深いこと─
 これらについて自分の心を厳しく吟味し、あてはまる「ふた」があればそれを取り除いて、思考力を正しく働かせる訓練をする。
 
【第四章】
「調和(じょうわ)第四」
 たべもの、睡眠、体、呼吸、心の調節の仕方についての説明
 
【第五章】
「方便行(ほうべんぎょう)第五」
 「正修行(せいしゅぎょう)第六」を始める前の五つの心がまえについての説明
 
【第六章】
「正修行(せいしゅぎょう)第六」(前編)
 「思考力を正しく働かせることによって、ものの考え方の狂いをなおすやり方」として、「正観(しょうがん)」があり、これは「諸法の実相を観ずる智慧」、つまり「宇宙のあらゆる事物が、そのまま真実の姿であることを、実感として肌で体感することである。
 恵心僧都の『真如観』によると、「本当の自我というものは、時間•空間を超越して、永遠に続いて存在する全宇宙そのものなのだから、この世の中の一部分にすぎない有限の自我なんてものは不可得」であり、諸法実相を観じ、体感するには、「この全宇宙こそが、自分自身なのだ─と心の底から思い込め」と言っている。

「正修行(せいしゅぎょう)第六」(後編)
 つぎの「歴縁対境は、はじめは自分の外部のものごとを、ひとつ、ひとつ、仏だ、仏だ、と思う癖をつけ、やがて、この世の中の、なにもかもが仏だ─と思えるようになったら、そのなにもかもの中に、自分自身も入っているのだから、自分も仏だ─と思いこみ、最後には、いつでも、どこでも、なにものに対しても「自分は仏だ」という立場で対応してゆく練習である。

【第七章】
「善根発相(ぜんごんほっそう)第七」
 六章にわたって積み重ねてきた数々の止観の結果として、息道の善根不浄観の善根慈心の善根因縁観の善根念仏三昧の善根が現れ、身も心も軽く、まるで自分の体が光か空気にでもなったような、いわゆる恍惚状態を体験したとしても、ただそれだけで、修行の最終段階に到達したと有頂天になるのは危険で、その善根が本物かにせものか─ということを、はっきり見分けなければいけない。

【第八章】
覚知魔事(かくちまじ)第八」
 正しい修行の結果として到達する無我の境地ではなく、あやまった手段によって起こる恍惚状態(悪魔の落とし穴)に落ち込まないようにするには、どうしたらいいか?
 最も重要な結論ともいうべきものは、
『もし、分別憶想すれば、すなわち、これ魔羅の網なり』
 つまり、あれこれと是非善悪を判断したり、ああか、こうかと、ものごとを憶測したり想像する─そのことについて天台大師は
『あなたが、少しでも感情をまじえて、ああでもない、こうでもないと、自己中心のものの考え方をはじめたら、そのことが、すでに魔羅の網、すなわち悪魔のわなに、ひっかかっている証拠なのだ─だから、どんな場合でも、感情を波立たせず、まったく心に、なんのわだかまりもない行動をすることこそ、世渡りの極意なのだ』

【第九章】
病患の治し方 第九」
 坐禅というものは、徹底的に、注意深く修行すれば、どんな病気だって、治らないはずがないのだが、その練習方法に、もし油断があると、感情が波だつことによって、呼吸が乱れ、かえっていろいろの病気をひき起こしかねない。
 この、いわゆる自律神経の失調によって起こるいろいろの病気は、自分にとって一番ふさわしいと思われる息の吐き方、吸い方を、色々と工夫することによって、案外、簡単に、いわゆるストレス解消ができる場合が多い
 もう一つ、人間が病気になるということの根本原因は、ものごとに強い執着がある場合であり、私たちは、つね日頃、何かにつけて、今、ここにわれあり、との考え、この肉体こそわがものなりとの考えにとらわれて、自己中心的なものの考え方ばかりしているからであり、病を断つとは、即ち、われあり、との考え、わがものなりとの考えを断つことだ

と言っています。


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「証果(しょうか) 第十
 
 “この表題、証果とは、最終的な悟りの結果といった意味のようです。
 この章に説かれていることの肝心要は、という三つの言葉で、これこそ、まさしく天台大師の教えの、究極の、奥義とでもいうべきでしょうか?”───というよりも、実は、この天台小止観、全十章そのものが、このの真理を説くためにこそ書かれたものだ───と、申すべきかもしれません。

 では、そのとは一体何か?
 ひと口にいうならば、人生の生き方を、正しく判断するための、論理の進め方とでもいいましょうか───とにかく、天台大師が生み出した一種独特の三段形式の論法です。
 これまで進めてきた止観の修行方法は、もっぱら、その第一段階であるの角度から、すべてのものごとを判断するやり方でした。
 つまり、この世の中のすべての現象は、一切だと、一応、割り切ってしまうこと。───これが、いわゆる空の考え方で、天台大師はこれを空観(くうがん)と呼んでいます。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、こういうものの考え方は、自分自身の苦しみや悩みを解消するためには、たしかに便利な方法に違いはありませんが、あくまでも、そういう考えばかりを続けていると、自分ひとりの悟りの道をきわめること、それが即ち人生最高の幸福だと信じ込むようになってしまう───ということは、自分をまったく無にして、宇宙と一体になるどころか、いつの間にか、まわりまわって、自分ひとりだけの楽しさにとらわれた、硬い殻の中に閉じこもってしまうことになるわけです。
 そこで、天台大師は、止観の修行の最初の段階では、空観、すなわち一切空という考え方を身につける練習から教え始めますが、それがある域にまで達したら、次には第二段階として、いわゆる(け)の世界に進み出なければいけない───と言うのです。
 
 では、その、の世界に進み出るとは、どういうことでしょうか?
 ひと口にいえば、人間は、自分ひとりの苦しみや悩みから、のがれることばかりを考えずに、全人類どころか、生きとし生けるもの全体の苦しみや悩みを解消するための、あらゆる手段方法を、研究しつくさなければいけない───ということです。
 そのことを、なぜ、の世界へ出る、と呼ぶかというと、
 第一段階の空観、すなわち一切空という考え方からすれば、全宇宙が一心同体で、そこには、いいの悪いの、嬉しいの悲しいのというような区別は、まったくないはずですが、
 第二段階に進んで、仏になり代わって、いわゆる衆生を済度することになると、その救われる立場にある衆生は、明けても暮れても、いいの悪いの、嬉しいの悲しいのということにこだわって、苦しみ悩んでいるのですから、その苦しみを救おうとする菩薩もまた、仮に、そういう喜怒哀楽の存在をみとめなければ、いわゆる病に応じて、それぞれの薬や治療法を施す───ことができないわけです。
 つまり、煩悩に束縛されて迷っている人々の気持ちを自分のことのように理解して、それぞれにふさわしい仮の手立てを講じること。───それが、いわゆる(け)の考え方で、天台大師は、第一段階の空観に対して、これを仮観(けかん)と呼んでいます。
 
 ところで、

 上求菩提(じょうぐぼだい)
 下化衆生(げけしゅじょう)

 上にむかっては仏の悟りを求め、
 下にむかっては衆生を教化済度すること

 たいていの場合、仏道修行といえば、この二つに尽きると思われているようです。
 この、上求菩提、下化衆生と、天台大師が説く空観・仮観とを比べてみると、空観は、己れを無にして、仏と一致することであり、仮観は仏に代わって衆生を済度するのですから、大体、同じだと申してもいいでしょう。
 となると、止観の修行の場合にも、空観仮観の二つだけを学べば、それでいい───ということになるはずです。
 ところが意外なことに、天台大師は、空観と仮観だけでは、本当の悟りの境地へは到達できないと言うのです。

 なぜ、空観仮観だけではいけないのか?
 まず、空観が、かえって自己中心のひとりよがりになりがちなことは、前に述べました。
 では、仮観の場合には、どんなマイナス面があるのか?
 それは、衆生の苦しみや悩みを同情するあまり、助けるべき相手の人々と一緒になって、いいの悪いの、嬉しいの悲しいのと、一喜一憂する気持ちが、起こりやすくなることです。
 そのために、自分では、衆生を済度しようと、一生懸命努力しているつもりでも、いつのまにか煩悩の泥沼にはまりこんでしまう危険がある、と言うんです。

 では、一体、どうしたらいいんでしょうか?
 そこで、天台大師は、第三段階として、空観、仮観いずれにもかたよらない、まったく偏見のない仏の心と一致しなければ、いけないと言います。そしてその仏の心と一致した、ものの見方を、とか、中道とか、中道第一義と呼び、前の空観、仮観に対して、中観と呼んでいるのです。
 ところで今ここに、中道という言葉が出てきましたが、天台大師が空観、仮観といっしょに使う場合の中道は、世間一般の人々が使う中道とは、少しばかり意味が違うことを、ご承知ください。
 たとえば世間では、中道政治などといって、右でも左でもない中正公明な道のことを、中道と解釈しがちです。それからまた、小乗仏教では、あまり極端な苦行をしたり、その逆に、ごく楽な生活をするのを、両方とも排斥して、苦でも楽でもない、丁度適当な修行をすることを、中道と呼んでいますが、天台大師の言う中道とは、そのどちらの意味でもなくて、いわゆる空観にも仮観にもかたよらない、あらゆる立場を超越した、絶対真実なものの見方のことを指しているのです。

 絶対真実なものの見方とは、具体的に言ったらどういうものなのか?

 そこで、改めて天台小止観を読み返してみると、一番最初の序文のところに、第十章における空、仮、中の説明と、まったく同じ意味の言葉が書かれてあるのに、気がつきます。
 不思議なことに、空観説明と、止観の、つまり感情を波だたせない修行方法に関する説明が同じであり、仮観の説明と、止観の、つまり思考力を正しく働かせる修行法に関する説明が、まったく同じ言葉で書いてあるんです。
 となると、問題の中観、あるいは、中道第一義とは何か?
 それは、止と観の、いずれにもかたよらない修行法、言いかえれば、感情を波だたせないことと、思考力を正しく働かせることのバランスが、みごとにとれている状態について、序文のところで手短かに説明している文章とまったく同じものが、最終章の中観の説明のところにも出てくるのです。
 
 では、その止と観のバランスがみごとにとれている状態に到達するには、どうしたらいいか?
 実は、そのことについての説明が、第六章の「正修行」の中にいろいろ書いてあります。といっても、それは、たいして難しいことではありません。
 要するに、止と観の修行法を、どちらにもかたよらないように、平均して、何べんでも、何十ぺんでも、いや、何百ぺんでも、くり返せということにすぎないのです。
 しかし、こうやって、止でいけなければ観、観でいけなければ止というくり返しを、明けても暮れても絶え間なく続けてゆくと、止から観へ、そして観から止へと、次々に対応してゆくスピードがだんだん早くなって、しまいには、いかなる突発的な事件に出遭っても、少しもうろたえることなく、その瞬間に、その場にもっともふさわしい対処の仕方を判断することができると同時に、心に思う通りの合理的な行動が、とれるようになってきます。
 それがすなわち、第六章の「正修行」で説いている、止と観のバランスが見事にとれている状態に到達したことになるわけです。
 そして、このようにして、空観から仮観へ、仮観から空観へと果てしなくくり返してゆく、ものの考え方、それが即ち天台大師のいう中観、あるいは、中道第一義ではあるまいかと、私(松居)には思えるのです。”
 
<松居桃樓(とおる)『微笑む禅』より>
 
 
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 『微笑む禅 生きる奥義をたずねて』(松居桃樓(楼)(とおる) 著)について、なんとか最後までまとめることができました。
 『現代語訳 天台小止観』(関口真大訳)と並行して読み合わせていくうちに、松居さんの理解の仕方と私の理解の仕方の間に違いを感じるようになりました。
 読み返して思索を深められるよう、今後は、『現代語訳 天台小止観』(関口真大訳)についても、少しずつこのブログに書き留めておこうと思っています。(みゅ)