認知症の老犬を介護するにあたって、当初私は自分の感情をコントロールすることができずに悩んでいましたが、この本のおかげで、それがだいぶできるようになった気がします。

 なので、後々忘れないようにその内容をブログにまとめておこうと思いたちました。


 現在は無事に愛犬を看送り介護も終わりましたが、これからの自分にとっても必要な教えだと思いますので、少しずつですが読み進めていきたいと思います。


 そして、もしもそれがどなたかのお役に立てることがあれば幸いです。



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 “天台小止観のとは、「感情を波だたせないこと」であり、「思考力を正しく働かせること」です。”

前回までは、
止観の練習の前に準備する五つのことがらのうちの一つ、
「持戒(じかい)清浄」が「ほほえみを大事にする」ということであり、頭では分かっていてもそれがなかなかできないという人は、体と心のしこりを解きほぐすことを繰り返し続けていけば、必ずほほえむことができるようになる。
 もう一つ「衣食(えじき)具足(ぐそく)」というのは直訳すれば「きものとたべもののととのえ方」にすぎないが、その根本の精神は、『我が物を我が物と言わず』という暮らし方と、『無条件で無限に助け合う仏道修行のグループ』を作ること…この二ヶ条に尽きる。
 そして「近善(ごんぜん)知識」はその修行の援助者や同志はむしろ修行の指導者として充分に尊敬できる人物をえらべ
ということでした。


 今回は、五つの手がかりのうちの第三番目「閑居静処(げんごじょうしょ)」、「できるだけ、静かな所で修行をしろ」ということについてお話ししたいと思います。

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 “「天台小止観」の原文では「閑居静処(げんごじょうしょ)」となっています。「できるだけ、静かな所で修行をしろ」ということですがこれもまた、上中下の、三つの階層に分かれています。
 最上級は、俗世間の人間がまったく近よらないような山奥でひとりぼっちの野宿生活。
 中級は、人里から少なくとも十キロ以上離れた静かな森や野原での小屋がけ生活。
 さて、最下級の場合は、静かなお寺の合宿生活ということになるんですが、必ずしもお寺に限らず、とにかく修行に都合のいい既成の建物を利用するー と解釈していいでしょう。
 ただし、天台大師が晩年に講義した「摩訶止観(まかしかん)」には、この最下級の場合でも、修行者はなるべく一人一人別々の個室にこもるべきだー と言っています。合宿だからといって、ワイワイガヤガヤのお祭り騒ぎじゃ、止観の練習はできないからでしょう。
 要するに、いずれも静かな所で心を落ちつけるのが眼目のようですが、この修行の場所のえらび方には、もう少し深い意味がありそうです。
 それは何かというと、そもそも止観の修行の目標は、仏と同じ境地に到達することであり、言いかえれば『いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむことができるような人間になることだ』と、私は思うんですが、じゃあわれわれは、どんな時に、どんな所で、誰と向かい合っている場合に、一番ほほえみやすいんでしょうか?
 大ていの方は「いうまでもなく、そりゃあ家族や親しい友人と一緒にいるときにきまってる」とお思いになるでしょう。
 ところが、これが、あんまり身近の人間同士では、ついわがままになりがちで、案外、ほほえみたくても、どうにもほほえめないという場合があるものです。
 それに反して、不思議なことに、人間は、自分から縁が遠いものにほど案外ほほえみやすいものなんです。
 ー ということは、止観の修行をする場合にも、あんまり身近かの人たちとばかり顔をつき合わせながらやるよりも、むしろ、人間とはなるべく縁の遠いものと向かい合っていた方が、うまくいく可能性が大きいんじゃないかー と、私は思うんです。
 そこで「天台小止観」では、高い山の頂上などで、大空や、月や星を相手に、ひとりぼっちでやる修行を、最上級のものー とするのでしょう。
 さて、その次の中級は、森や草原で、自然の植物とだけつきあう練習。この場合でも原則として、たった一人で修行しろー と、言っています。
 したがって、最下級の場合の、仲良しグループの合宿にしても、「なるべく一人一人が個室にこもるようにして、お互いに顔を合わせるな」というのでしょう。その上、前回お話しした「よき導き手を、正しくえらんで近づけ」という項目をわざわざ設けたのは、一緒に修行する同志に対しても、あんまり親しくなりすぎることのないように、お互いに、相手を、同行の善知識、すなわち尊敬すべき指導者と思って礼儀正しくつきあえー と、教えてくれているのではないでしょうか?
 まあ、とにかく、以上のようなことで、「修行の場所のえらび方」も、一応ご理解いただけたものとして、いよいよ最後に残るのは、第四番目の「世俗のつきあいをやめろ」と言う項目の説明ですが、それは次回でお話しすることにいたします。”

<松居桃樓(とおる)『微笑む禅』より>


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わたしは、自然の植物とふれ合うのが一番ほほえめそうです照れ(みゅ)