認知症の老犬を介護するにあたって、当初私は「怒り」の感情をコントロールすることができずに悩んでいましたが、この本のおかげで、それがだいぶできるようになった気がします。

 なので、後々忘れないようにその内容をブログにまとめておこうと思いたちました。


 現在は無事に愛犬を看送り介護も終わりましたが、これからの自分にとっても必要な教えだと思いますので、少しずつですが読み進めていきたいと思います。


 そして、もしもそれがどなたかのお役に立てることがあれば幸いです。



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 “天台小止観のとは、「感情を波だたせないこと」であり、「思考力を正しく働かせること」です。”

前回までは、
止観の練習の前に準備する五つのことがらのうちの一つ、
「持戒(じかい)清浄」が「ほほえみを大事にする」ということであり、頭では分かっていてもそれがなかなかできないという人は、体と心のしこりを解きほぐすことを繰り返し続けていけば、必ずほほえむことができるようになる。
もう一つ「衣食(えじき)具足(ぐそく)」というのは直訳すれば「きものとたべもののととのえ方」にすぎないが、その根本の精神は、『我が物を我が物と言わず』という暮らし方と、『無条件で無限に助け合う仏道修行のグループ』を作ること…この二ヶ条に尽きる。
というところまでお話ししました。


 今回は、五つの手がかりのうちの第五番目「近善知識(ごんぜんちしき)」、「よき導き手を、正しくえらんで近づけ」についてお話ししたいと思います。

 “(本来ならば)次は、「修行を始める前の基本的条件」の第三番目、「なるべく静かな所で修行せよ」という項目に移るべきなんですが、グループ作りの問題と関係が深い、第五番目の「いい指導者をえらべ」という話の方を、さきにすることにしましょう。
 この第五番目の項目の天台小止観の原文には、「近善知識(ごんぜんちしき)」という言葉が使ってあります。つまり、『よき導き手を、正しくえらんで近づけ』ということです。
 この善知識には、三種あって、第一は、外護(げご)の善知識。
 これは、衣食具足(えじきぐそく)の、暮らしのたて方第三級の場合での例の援護者にあたるわけですが、見栄を張って身分不相応なくれ方をして、あとになって悔やんだり苦しんだりするような人(援護者)や、あるいはまた、修行する人に必要以上の金やものを与えすぎて、かえって修行の妨げになるような人(援護者)には近寄るなーと言っています。
 第二は、同行の善知識。
 つまり、同じ道を修行しながらお互いに助け合い、はげまし合って仲よく共同生活のできる人たち。まさに、第四級のグループ作りの同志たちのことです。
 ただし、すぐ感情をたかぶらせてひとと争ったり、ものごとの判断を誤りやすい人を仲間に入れてはいけないーと注意しています。
 さて、第三は、教授の善知識。
 止観の修行方法を正しく教えてくれる教授ーすなわち、これが本当の指導者です。
 しかし、天台小止観をよく読みさえすれば、いわゆる指導者はいなくても、自分で独学できるはずなので、むしろ心して正しくえらぶべきは、外部からの援助者やグループ作りの場合の同志たちであり、そういう人々を、単なるスポンサーとか仲間と思わず、むしろ修行の指導者として充分に尊敬できるような人物を選べーというのではないでしょうか。”


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実際に役に立つかどうかは別として、一つの考え方として参考になるのかなぁと思います。(みゅ)