時代と人生 7 「神武景気」3年目、働きながら学ぶ烏城高校3年時代 | 5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

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車に乗れなくなった。歩くしかない。歩き始めはまず岡南神社。そこからはあちこち。感じたまま、思ったまま。子供の作文です。

◎ 昭和31年(1956年) (17歳 烏城高校2年ー3月まで 4月ー18歳 烏城高校3年)

 

  実質経済成長率 6.8%

 

  原子力委員会設置。日本原子力研究所設置。ソビエト連邦と国交回復、日ソ共同宣言・国際連合加入。

 

働く 竹内歯科商店3年目

家が改築され、お店の2階に広い部屋が出来、さんちゃんと自分はその部屋に移った。お店から上がってすぐの部屋には、テレビ(白黒)も置かれた。(洗濯機もこのごろだったと思う。)「三種の神器」

テレビもそうだが、何よりも自分たちにとって画期的だったのは、オートバイを導入してくださったことだった。

さんちゃんにはヤマハ125cc。自分にはスズキコレダ125ccが割り当てられた。

 

もう2人とも大興奮である。早速に原付2種の免許を取り、仕事に使い出した。

月曜日 倉敷市内(岡山のお店から倉敷へ)

火曜日 総社(倉敷駅の自転車預かり屋さんから総社往復)

水曜日 連島・水島(倉敷駅の自転車預かり屋さんから水島往復)

まだ水島コンビナートが形成される前で、田んぼや畑も多かった。(自分の住んでいる岡山市の岡南地帯もそうだが、水島の変わりようは、とんでもなく凄い!

倉敷紡績倉敷工場・岡山工場・日本紡績総社工場など繊維工業が盛んな時代(軽工業中心時代)。水島では新三菱重工業(現在の三菱自動車)オート三輪を作っていた。星野仙一さんのお母さんが寮母をしておられたのはこの頃?)(烏城高校にも紡績工場で働いている人も来ていた)

木曜日 倉敷市内(2度目)

金曜日 西阿知・船穂・玉島駅周辺(倉敷駅の自転車預かり屋さんから玉島駅の自転車預かり屋さん)

土曜日 玉島・勇崎・黒崎(玉島駅の自転車預かり屋さんから玉島を廻って岡山のお店へ)


この日程も「ラン ラン ラン!」である。坂道なんぞ「スイ スイ スイ!」。とんでもなく楽になった。雨が降っても、濡れている時間は以前の半分か3分の1。廻る時間もグッと短縮。少々の長話のゆとりも生まれた。

春夏秋のオートバイは快適だったが、はとんでもなく寒かった。(気候温暖化の進んだ現在に較べて、当時の冬は寒かった。虫明でも雪が降り、雪合戦などした思い出がある。)。ジャンパーの下に新聞紙を入れて寒さをしのいだ。

 

服装も変わった。学生服から、生まれて始めてのジャンパーへ。

学生帽も被らなくなった。

丸坊主から長髪へ、散髪屋さんでパーマを当ててもらったが、じぶんの写真を見て、「なんだこれは」 格好良くないじゃないかと1回だけでやめ、七三に分けるようになり、ポマードなどというものも付けるようになった。

少年から青年へ。田舎の素朴な子供から町の若者へ、といった感じになっていった。

学ぶ

学年ごとの科目・内容・教えてくださった先生方など覚えてはいるが、さだかでない。16日(月)に同級生だった岩田さん岡山県職員として長年勤務)と藤原の忠さん(烏城高校の紹介で山陽新聞社に入社、退職後も関連業務に携わっている)と3人で会い、あれこれ確かめあうことになった。

だからどうした。それがどうした。