実質経済成長率 6.8%
原子力委員会設置。日本原子力研究所設置。ソビエト連邦と国交回復、日ソ共同宣言・国際連合加入。
○働く 竹内歯科商店3年目
家が改築され、お店の2階に広い部屋が出来、さんちゃんと自分はその部屋に移った。お店から上がってすぐの部屋には、テレビ(白黒)も置かれた。(洗濯機もこのごろだったと思う。)「三種の神器」
テレビもそうだが、何よりも自分たちにとって画期的だったのは、オートバイを導入してくださったことだった。
さんちゃんにはヤマハ125cc。自分にはスズキコレダ125ccが割り当てられた。
もう2人とも大興奮である。早速に原付2種の免許を取り、仕事に使い出した。
月曜日 倉敷市内(岡山のお店から倉敷へ)
火曜日 総社(倉敷駅の自転車預かり屋さんから総社往復)
水曜日 連島・水島(倉敷駅の自転車預かり屋さんから水島往復)
まだ水島コンビナートが形成される前で、田んぼや畑も多かった。(自分の住んでいる岡山市の岡南地帯もそうだが、水島の変わりようは、とんでもなく凄い!)
倉敷紡績倉敷工場・岡山工場・日本紡績総社工場など繊維工業が盛んな時代(軽工業中心時代)。水島では新三菱重工業(現在の三菱自動車)がオート三輪を作っていた。星野仙一さんのお母さんが寮母をしておられたのはこの頃?)(烏城高校にも紡績工場で働いている人も来ていた)
木曜日 倉敷市内(2度目)
金曜日 西阿知・船穂・玉島駅周辺(倉敷駅の自転車預かり屋さんから玉島駅の自転車預かり屋さん)
土曜日 玉島・勇崎・黒崎(玉島駅の自転車預かり屋さんから玉島を廻って岡山のお店へ)
春夏秋のオートバイは快適だったが、冬はとんでもなく寒かった。(気候温暖化の進んだ現在に較べて、当時の冬は寒かった。虫明でも雪が降り、雪合戦などした思い出がある。)。ジャンパーの下に新聞紙を入れて寒さをしのいだ。
服装も変わった。学生服から、生まれて始めてのジャンパーへ。
学生帽も被らなくなった。
丸坊主から長髪へ、散髪屋さんでパーマを当ててもらったが、じぶんの写真を見て、「なんだこれは」 格好良くないじゃないかと1回だけでやめ、七三に分けるようになり、ポマードなどというものも付けるようになった。
少年から青年へ。田舎の素朴な子供から町の若者へ、といった感じになっていった。
○学ぶ
学年ごとの科目・内容・教えてくださった先生方など覚えてはいるが、さだかでない。16日(月)に同級生だった岩田さん(岡山県職員として長年勤務)と藤原の忠さん(烏城高校の紹介で山陽新聞社に入社、退職後も関連業務に携わっている)と3人で会い、あれこれ確かめあうことになった。
だからどうした。それがどうした。