レバノンでの悲劇⑮(立山良司著イスラエルとパレスチナで考える) | わかったできたの笑顔がやる気スイッチを押すこじんまりしたこじま塾。

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レーガン米大統領提案とアラブからのフェズ提案をたたき台に双方の歩み寄りができるかと期待された1982年9月。ほぼ2週間後の16-18日にかけ、レバノンの西ベイルート、シャブラ・シャティーラ両難民キャンプに住む2000-3000人とも言われる難民がキリスト教マロン派民兵ファランジストによって虐殺された。イスラエル軍が封鎖している中で。
PLOの西ベイルート撤退完了から二週間後の9/14次期レバノン大統領就任直前だったキリスト教マロン派の若手リーダー、バシール・シュマイエルが「何者か」が仕掛けた爆弾で暗殺された。以前からイスラエルと接点を持っていたバシールが就任すればベギンやシャロンの描く第一段階が達成されていたため、暗殺の背後には親イスラエルのバシールを嫌うシリアがいたとも噂された。
不測の事態を懸念したイスラエル軍は西ベイルートへ侵攻すると同時に残存するパレスチナゲリラを掃討させるという名目でリーダーを暗殺されて復習の血に飢えたファランジスト民兵を両難民キャンプ地へ入れた。
事件後にイスラエル政府が設けた特別司法委員会は結局、直接の原因はファランジスト民兵にあり、若干の軍幹部の更迭を求めるとともにシャロン国防相については「個人としての適切な結論」を出すように要求。当初は拒否したが最終的には無任所大臣として閣内に留まるとして妥協案として国防相を辞任。ベギン首相については「重大な責任あり」とされ特別な示唆はなかったが、事件から一年後突然辞意を表明し表舞台から姿を消した。
バシールの暗殺、シャブラ・シャティーラ虐殺事件はレバノンの状況を一層悪化させ、バシールの後任、兄のアミン・シュマイエルが選出されたが自派マロン派キリスト教徒内の対立に巻き込まれ、何らなすところなく6年間の大統領任期を終える。
この状況では一方のイスラエル軍も南レバノンから即座に撤退できない。南レバノンにはシーア派イスラム教徒のレバノン人が多数住んでいるが、パレスチナゲリラの跳梁を嫌っている彼らもイスラエル軍の長期占領への反発し始めた。1982年秋ごろからシーア派民兵によるイスラエル軍への攻撃が本格化し始め、1985年6月の完全撤退まで侵攻から三年間で約650人の犠牲者を出した。
最大の被害者はもちろんパレスチナ難民とレバノン国民自身で一万人以上が死亡したと言われる。レバノンでは宗教各派が対話よりも武力で対立するようになってしまい、中東和平をめぐるイスラエルとアラブの対立や、アラブ諸国間の軋轢がレバノン内での対立にそのまま反映する構造になっている。

と書いているところにレバノンでビル爆破のニュース。過去のはなしではなくまさに紛争の最前線であることを実感させられてしまう。