昨日は、京都市京セラ美術館で「アンディ・ウォーホル・キョウト」を観てきました。

アメリカのポップ・アートの礎を築いた、アンディ・ウォーホルの大回顧展で、昨年9月から今年の2月まで開催されています。

どういう訳かわかりませんが、京都だけの開催で巡回はないとのこと。

終わるまでにはと昨年から思っていた展示会ですが、会場の京セラ美術館は、自宅からDoor to Door で40分くらいと近いこともあって、いつでも気軽に行けることから、客足が落ち着いてくる頃合いを見計らっていました。

*ポスターの画像はネットからお借りしました。
 
どんな展示会かは、美術館の特設HPに詳しく記載されていたので、以下、一部、転載させて頂きます。

 

門外不出の《三つのマリリン》、大型作品《最後の晩餐》ほか、 京都でしか見られない日本初公開作品100点以上を含む約200点が一挙に日本にやってくる!

アンディ・ウォーホルの内面に迫る注目の作品群―京都ゆかりの作品も公開!

 
 

イントロダクション

ポップ・アートの旗手として、アメリカの大量消費社会の光と影を描いたアンディ・ウォーホル。この大回顧展では、1950年代に商業イラストレーターとして活躍していた初期の作品から、1960年代に事故や死を描いた象徴的な「死と惨事」シリーズ、アンダーグラウンド映画やテレビ番組などの映像作品、セレブリティ(有名人)たちの注文肖像画、そして、その名声を揺るぎないものとしつつ、カトリックの生い立ちにも触れる晩年の作品などを包括的に展示します。この充実した内容の本展は、巡回せず、京都だけの開催となります。

 

アンディ・ ウォーホルは、1956年の世界旅行中に初めて来日し、京都を訪れました。本展では、京都とウォーホルの関係に目を向け、そのゆかりを示す貴重なスケッチなどを展示し、若き日のアンディ・ウォーホルの心を捉えた京都の姿に思いを馳せます。

 

アメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品のみで構成される日本初の展覧会であり、絵画・彫刻など約200点および映像15点の展示作品のうち、門外不出の《三つのマリリン》、大型作品《最後の晩餐》ほか、 京都でしか見られない日本初公開作品100点以上を含む本展に是非ご期待ください。

 
ピッツバーグからポップ前夜のニューヨークへ
1950年代初頭から60年代にかけて、商業イラストレーターとして一躍評判となった時期の作品を紹介します。ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれ育ったウォーホルは、1949年、カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)の絵画デザイン学科を卒業しました。同年、ニューヨークに移住したウォーホルは、ほどなく、広告業界でファッションエディターたちと協働する優秀なクリエイターたちの常連となりました。当時ウォーホルは、複製に適した簡易なモノタイプの版画技法「ブロッテド・ライン」を確立し、やがてこの技法により、同じイラストレーションが数々の色彩や装飾で仕上げられ複数制作されることになりました。『グラマー』誌、『ハーパーズ・バザー』誌、キャデラック社、I・ミラーシューズ社といったクライアントのために制作した初期作品には、商業広告には珍しい金や銀の箔も使用されました。
 

主要な作品

●日本初公開

アンディ・ウォーホル 《孔雀》 1957年頃

アンディ・ウォーホル美術館蔵© The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts, Inc. / Artists Rights Society (ARS), New York

 

ウォーホルと日本そして京都

1956年、ウォーホルは自身への「ご褒美」として世界一周旅行に乗り出しました。初めての海外旅行は、彼の人生における重要な転換期と見なされています。ウォーホルは京都、東京、香港、マニラ、ジャカルタ、バリ、シンガポール、バンコク、アンコールワット、カルカッタ、カトマンズ、ニューデリー、カイロ、ルクソール、ローマを訪問しました。旅のハイライトは、6月21日から7月3日までの約2週間を過ごした日本です。ウォーホル美術館の把握する限り、ウォーホルはカメラを持たず、スケッチブックに写生しながら旅を記録しました。手帳や旅のパンフレットに残されるスケッチにも、日本文化に出会う模様がさまざまにうかがえます。

本章では、京都滞在中のドローイングや写真といった作品と、地図やお土産などの資料が含まれます。その後、1974年に再来日したウォーホルは、生け花など豊かな文化に触れており、その影響が手彩色の生け花のドローイングに見て取れます。最新の情報を交えながら、ウォーホルがインスピレーションを受けた日本の魅力や日本との関わりについて紹介します。

 

『ポップ・アーティスト』ウォーホルの誕生

アメリカでポップ・アートが開花し、ウォーホルはそのムーブメントの中心人物の一人になります。1963年11月にスタジオをニューヨークの東47丁目231番地に移転したウォーホルは、すぐに美術界のトップの仲間入りを果たします。全米の美術館はこぞってポップ・アートをテーマにした展覧会を開催し、ウォーホルの作品は決まって紹介されました。「ファクトリー」と名付けられた彼の新しいスタジオは、作品制作、音楽、社交の場として、すぐさまアメリカで最もクールで享楽的な場のひとつとなりました。1960年代のシルクスクリーンによる作品は、人の手というより「機械でつくられた」かのように見えるだけでなく、当時の大量消費社会を反映したものです。ウォーホルは広告の大きな影響力を理解しており、消費者の関心を引くために広告と同様の手法を作品に取り込みました。

 

儚さと永遠

新聞の派手な見出しからハリウッドの憧れのスターまで、日常生活に作品の題材を求めていたウォーホルは、1960年代以降、自身を取り巻く、その当時注目を集めた独創的な人々を描いていきます。

子供の頃からハリウッドスターに憧れていたウォーホルは、1962年、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、エリザベス・テイラーといった有名人を題材とする一大肖像画シリーズの制作を始めました。その後10年も経たないうちに、ウォーホル自身が有名人となり、著名な俳優、アーティスト、ミュージシャン、作家、モデル、裕福なパトロンに囲まれるようになりました。彼らのほとんどが、ウォーホルの映画制作や肖像画を通して記憶され、永遠の存在となりました。

ウォーホルはまた、ポップ・アーティストの代表的存在となり、フランク・ステラやロイ・リキテンスタイン、ドナルド・ジャッドなどといったアーティストとともにアメリカ美術界における確固たる地位を確立しました。

 

光と影

最終章では、ウォーホルの複雑な生涯をめぐる諸相を探ります。名声と悪評によって、ウォーホルの存在は謎に包まれるようになりました。ウォーホル自身、矛盾に満ちた人物として、生と死、公と私、神聖な文化と世俗的な文化といった、相反する主題と対峙していました。本章では、死と闇に焦点を当て、自殺、自動車事故、事故現場を写した雑誌や新聞の画像を使った「死と惨事」シリーズを取り上げます。また、「最後の晩餐」シリーズといった晩年の作品を通して、謎めいたスターであり、ビザンティン・カトリックの信者であったウォーホルの複雑な一面を明らかにしていきます。

 

 

展示品の撮影は動画とフラッシュの使用は禁止されていますが、通常のカメラカメラやスマホスマホによる撮影はOK。むしろ、撮影して、インスタにアップを促すような掲示もありました。

 

平日ということもあり、そんなに混んでなくてゆっくり観ることができましたチョキニコニコ
見覚えのあるキャンベルの缶スープのポスター、《三つのマリリン》や著名人の肖像画、とても大きな《最後の晩餐》他、京都で描いたというスケッチなども見応えがあったし、パネル等も見てウォーホルについても少し詳しくなった気がしますチョキ
入場は一般化している電子チケット、また会場に掲示されているQRコードを読み取りネットにアクセスすれば、無料で乃木坂46の齋藤飛鳥ちゃんという子の音声ガイダンスを無料で聴くことも出来ました。僕は電車で出掛ける時は携行するワイヤレスイヤホンを介して聴きましたが、こういうやり方の音声ガイドはまだ浸透していないようで、あまり聴いている人はいませんでした。
これからの展示会のスタイルとして、今後定着するのではと思います。
 
以下、スマホで撮影した写真を羅列します。
 
多分、自画像のひとつ
 
初期の作品
 
 
 
京都で描いたスケッチの一部
 
 
 
 
 
ポップ・アート初期
 
キャンベルの缶スープ
 
キャンベルの缶スープ全種
 
好んだファッション
 
ビートルズ
 
スタローン、アリサ・フランクリン、?
 
3つのマリリン
 
自由の女神
 
 
最後の晩餐
 
美術館のtweetリンクを貼っておきます。