本日は曾祖父・郡寛四郎の次兄の郡長正が自刃して150年目に当たります。1872年(明治5年)12月までは太陰暦を使用しておりましたので、太陽暦に直しますと1871(明治4年)年5月1日は6月6日になります。

郡長正の記録は大変に少なく、実弟の郡寛四郎の証言から1856年生れである事、萱野乙彦から郡次郎を経て長正となった事が伝えられております。会津萱野家系図が1820年代で途切れており、菩提寺の天寧寺は会津戦争で焼失して過去帳が現存せず、1871年の「壬申戸籍」の記述の有無も現状では確認不可能な状況です。

一枚のみの写真は九州留学前に横浜のベアト写真館にて撮影されたもので、硝子乾板にも桐箱にも一切の記載がありませんが、当家の仏壇に保管され、郡寛四郎が焼き増しを九州の豊津中学校に寄贈している事から被写体の少年は郡長正です。撮影場所は永く不明でしたが、敷物と撮影レンズの特性からベアト写真館と特定出来ました。因みに撮影場所不明の山岡鉄舟の写真も同じ敷物ですのでベアト写真館です。

郡長正の自刃の原因は決定的な証拠がなく、食事の不満との事実無根が少年向け歴史小説に使用されてから定説となりましたが、歴史を知らない作者による荒唐無稽な創作です。実は第二次長州征伐の際に小倉藩が小倉城を焼却し香春に撤退した戦術を巡り、留学先の「育徳館」の現地学生と論争になり、会津藩も会津戦争の際に籠城戦と遊撃戦にて論争があり、郡長正の父親の萱野長修は遊撃戦を主張するも籠城戦に決した事を伝えたとの話があります。実際に萱野長修は籠城戦には参戦せず藩主の命令にて城外で遊撃戦に当たり戦果を挙げており、この辺りの戦術を巡る論争から失言や非礼が生じ、引責自刃ならば武士の子弟としての極めて自然な流れと言えます。現在の中学3年生相当ですし、留学生仲間は少し年上、現地学生も同年代以上である事を考慮しますと、多感な十代の論争が出発点の可能性は濃厚でしょう。

 

音楽史研究家 郡修彦