本年は曾祖父郡寛四郎(1858~1943)の次兄の郡長正(1856~1871)の没後150年に当たります。

長正は会津萱野家の次男として生まれ、幼名は萱野乙彦、当主長修の会津戦争戦犯としての処刑(自刃)により家名断絶となり、会津萱野家初代の長則の母親の姓である「郡」に改姓し郡次郎と改名、元服により郡長正となりました。

明治3年(1870年)に斗南藩(会津松平藩の移転改称)より選抜され、九州の豊津藩(小倉小笠原藩の移転改称)の「育徳館」に留学。

出発前に横浜のフェリーチェ・ベアト写真館にて撮影したコロジオン湿板写真が唯一の写真として、硝子原版と共に今日に伝わっています。

「育徳館」に留学後の明治4年5月1日(太陽暦6月6日)に16歳(数え年)にて自刃しましたが、原因は諸説あり現在では確認不可能な状況です。

その中で、比較的広く知られている原因は、留学先の食料事情を母親に報ぜんとした手紙、或いは母親からの返事が拾得された事に因るとの説ですが、これは武士の気質や生活形態を全く知らない者による創作であり、原点は大日本雄弁会講談社が発行する雑誌「少年倶楽部」の昭和4年(1929年)10月号に掲載された挟間祐行の武士道物語「会津魂」です。『育徳館に留学した郡長政が食糧事情を母親に報ぜんとした手紙が拾得され、豊津藩との剣術試合に勝利した後に従兄の主馬の介錯により9月22日に自害した』との創作短編歴史小説が、実は伝説の原点であり、事実関係・時代背景が自刃から58年の歳月にて全く風化した事を如実に示しています。

武家の次男としての教育を受け、元服の年齢の少年が食糧事情を母親に報ぜんとするのは荒唐無稽も甚だしく、半世紀強で武士の気質が全く失われた証左であり、著者も編集者も読者も誰一人疑問を抱かなかった点は恐るべき事と言わざるを得ません。また、手紙に関しても郵便制度以前の飛脚の実態を知らない故の創作であり、明治4年3月1日(太陽暦4月20日)開始の郵便が初期段階の限定地域のみであった事すら、著者も編集者も読者も知らなかったのです。

この様にして始まった郡長正伝説は時流に便乗して様々な派生を生み、広く真実として疑いもなく信じられて来ましたが、昨今の歴史研究の進展により明確に否定された事は子孫として嬉しい限りです。事実と創作は別物であり、歴史小説は事実を踏まえた内容である必要は改めて説明するまでもなく、創作娯楽歴史小説とは異なるのです。

 

音楽史研究家 郡修彦