本日は会津藩家老の萱野長修(かやのながはる)が戦犯として自刃して150年目に当たります。旧暦の1869年5月18日は新暦に換算しますと6月27日であり、この時期の東京は梅雨の最中ですので、自刃当日も雨か曇天であったと思われます。

さて、萱野長修の容貌は絵も写真も無く全く不明であり、1960年代の後半に想像画が作成されましたが、長修の三男の郡寛四郎の晩年の写真を参考にして描かれたものです。1911年(明治44年)5月18日に行われました「萱野国老追吊会」にて柴太一郎の国老追懐談の中に「君ハ父母ノ系統ヲ受ケ美男子デシタ」とありますが、江戸時代末期から明治時代の「美男子」の概念は今日とは異なると思われます。長修の実弟の萱野安之助(後に三淵隆衡と改名)の写真がありますが、長修の二女と、その次男の容貌と共通しており、おそらく長修の容貌も同系であったと想像されます。萱野断絶の後に実弟は三淵と改姓しますが、これは戦国時代に萱野、郡と関連の有る一族の姓にちなんだものです。

音楽史研究家 郡修彦


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