日本人だけではなく朝鮮人にも信仰されていた朝鮮半島の神社 | 九州のヘソ便り

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九州のヘソ辺りに江戸時代に作られた水を通す石橋
(通潤橋)があります。その付近に住んでいます。
山の生活・九州のヘソ便りです。
最近短歌始めました。
十一月の短歌
烏羽玉(うばたま)の夢で逢う君昔のままに笑顔で寄れば声かけられず

ごきげんよう~~♪目

今日もまじめな話。

日本人だけではなく朝鮮人にも信仰されていた朝鮮半島の神社というタイトルです。

「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社より

日本人は海外に住みつくと、どこでも神社を創建してきました。 …本書では朝鮮の場合を問題としているので、それに限ってとりあげると、日本が朝鮮に神社を建てたのは、今から320年も前のことです。対馬領主の宗義真が、釜山に「竜頭山神社」を創建しました。日韓通商船の安全祈願のために、金刀比羅宮を奉斎したのが始まりです… これが海外拓殖神社の先達であり、当時の居留邦人の信仰の拠り所となりました。
(中略)
日韓併合とともに日本と朝鮮の交流は一層活発となり、朝鮮に移り住む日本人の数も急増した。移住した日本人たちは、心のより所として神社(祠)を建立したため、大正時代の末にはほぼ朝鮮の主要地域全てに神社が建立されることになった。朝鮮神職会発行『朝鮮内神社一覧』(昭和12年7月現在)によると、12年当時、朝鮮全土に創立された神社は56社、神祠は301、神職75人となっている… 興味深いのは氏子戸数で、昭和12年現在で、「京城神社」は日本人が約2万7千戸であるのに対して朝鮮人が約10万2千戸、「大邱神社」も日本人が約6千戸で、朝鮮人は1万6千戸となっている。大正五年創建の「仁川神社」でも日本の氏子3千戸に対して、朝鮮人氏子は1万4千戸である。朝鮮の氏子戸数の方がほぼ倍から4倍も多くなっている。昭和12年と言えば、「内鮮一体」の掛け声のもと神社参拝が奨励されていた南次郎総督の時代であり、且つ日本人と朝鮮人の人口比なども斟酌(しんしゃく)してこのデータを見る必要があるだろうが、当時、朝鮮の各神社が圧倒的に朝鮮の氏子によって支えられていたことは事実である。しかし、残念ながら戦後の混乱の中で、これら神社はすべて破壊されてしまった。(江崎道朗)
(中略)
内鮮融和の背景
ここに昭和16年5月10日に、「財団法人・中央協和会」から発行した『内鮮一体随想録』というパンフレットがあります。独協大学の中村燦教授から借りたものですが、この文章は香山光郎(本名は李光洙、二・八独立宣言を執筆した作家)が書いています。この本は内鮮一体を実現することの意義を朝鮮人の立場から縷々述べたものですが、日本人の「やらせ」だとたちまち反発されるかも知れません。それはともかく当時このような発想があったことは事実なのですから、貴重な歴史的資科として読んで下さい。
〈日本人とは日本精神を所有し、且つこれを実践するものを指す。我が帝国(日本のこと)は、昔もさうであつたが、今後一層血統国家であつてはならない。たまたま内鮮(日本内地と朝鮮のこと)は血統に於ても、少くとも全人口の三分の一の混血率を持つてゐるさうで、一体となり一つの国民を形造るのにまことに好都合であることはいふまでもないが、大東亜共栄圏建設のためには、寧ろ血統が邪魔になる場合さへあり得る。況(ま)して八紘一宇の大理想を以つて、全人類を包容せんとするに於てをやである。しからば如何なるものが、皇民であり、日本人であるか。それは天皇を仰ぎ奉つて日本の肇国の理想たる八紘一宇を理想とする人民であるべきである。であるから朝鮮人が皇民たるには、皇道を学ばねばならない。皇道を学ばずして皇民たることは出来ない。言換へれば、朝鮮人はもともとから日本人であつた内地人と同じ気持で、天皇を仰ぎまつり、同じ気持で神社に参拝し、同じ気持で、銃を取らねばならない。その間毫厘(毫釐?ゴウリ= ほんのわずかであること)の隙があつても一体ではないからである。〉

この文章を読んで、「異民族をこうまで言わしめた日本の政策を憎む」とか、「筆者の李光洙は保身のために、赤い舌を出しながら書いた」と、批判することは簡単です。しかしあの頃は、このような発想が自然に受けとめられていたのです。朝鮮人の中にも李光洙のように日本化することに努力したり、日本人以上に日本人になった朝鮮人も多かったのです。

植民地統治の検証 2 反日史観を糺すより引用

-------------------ここまで

私もこの文章読んで、明治の頃から日本と韓国は一つとなるよう国策を進めてきたのだと思います。

考えてみれば、文先生も日本統治国だったからこそお生まれになられ死亡することなく存命されたのだと思います。

もし、仮にもしも、ロシアや、清国に朝鮮が植民地化されていたらどうなっていたでしょう。

それはそれは、悲惨でたとえ文先生といえども幼少時代を過ごすことができたか疑問だと思います。

なぜならそれは”真の植民地”だからです。

 逆に考えてみたら、サタン(日本=母)の懐でお生まれになりすくすくと育たれた文先生、その文先生のご成長を見守ったのも日本だといえなくも無いと思います。

 日韓併合の歴史を見るときは李氏朝鮮から韓国動乱までのスパンでの35年間を見るべきだという人も居ます。極ごく一部をみるのではなくてそれまでの経緯を見て判断しないといけないというのです。

私もなるほどと思いました。一日も早く仲良く日韓が手を取りあうことを願って止みません。

 またこういう記事を書くと反日の人からお叱りのコメント頂戴するかもしれませんがわかるところはできるだけ答えていきたいと思います。

最後まで読んでいただき有難うございました。。



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