市民運動もNPOも飯は食わねば生きられぬ | あべこう一(阿部浩一) Official Blog

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シンガーソングライター

 少し前の記事からですが、沖縄の辺野古新基地建設反対の抗議行動について、座り込みの参加者は県外から日当をもらってやってきた人ばかりだとする情報が出回っているという趣旨の話がありました。

 

『辺野古抗議は「プロ市民」? 沖縄の基地ウソ/ホント』(琉球新報2016.5.17)

 

 この類の悪意ある市民運動への揶揄や中傷は今に始まったことではありません。脱原発デモであろうとイラク攻撃反対行動だろうが、参加者に対してネット上で、路上で、必ず「おまえらお金もらって来ているだけなのだろう?」などという輩はいました。

 

 参加すればお金がもらえるというなら、そのお金の出所はどこだというのでしょうか。そういうことを言いたがる人たちが好きな特定の国からお金が出ているという言い分は、もう相手にするのもバカバカしい話です。労働組合もやり玉に挙がりますが、組織率がどんどん低下しているご時世にそんな気前のいい労組があれば逆に尊敬します。

 

 労組も含めて、志しや思いを同じくする組織やネットワークがその方針の下、行動のために限られた中から必要なお金を融通し合うことに対してまで、揚げ足取りのようなことを言うなら、それはこうした取り組みに対する根本的なとらえ方が間違っています。

 

 私はお金のことがネックになって尊い活動が継続できなくなったり衰退したりするくらいなら、日当でも何でも出せばいいとさえ思います(そんなお金は現在どこにもないでしょうが)。こうした揶揄や揚げ足取りの精神構造は先日の「貧困女子高生バッシング」に似ています。貧困というなら飢餓状態でなければならない、1000円のランチを食べて好きなコンサートを観に行っていて何が貧困か。市民運動やNPO活動は善意に基づくものなのだから無償ボランティアでなければおかしいなどというような……。

 

 根底にあるのは勘違い。現代社会に暮らす以上、誰もがこの社会の仕組みや経済と全く無関係ということはできません。市民運動もNPO・NGOだって“武士は食わねど高楊枝”というわけにはいかないのです。悪意ある人は“尊い行動”がお金で汚されている、所詮は思いよりもお金がもらえるから動いているのだという構図を望んでいるのでしょうが、そもそもお金自体が汚れているのではなく、それを扱う人間の心の問題です。

 

 限られた時間でその行動にガッツリ参加して役に立っている人ほど、別に食べていくための経済活動ができないのだから、むしろ物心両面でそういう人を支援するという発想はあってしかるべきだと思います。揶揄や揚げ足取りを受ける側も、事実に反することには毅然とした態度で臨むのはいいのですが、“武士は食わねど高楊枝”でいいとは決して思うべきではありません。

 

【参考】
「貧困女子高生」バッシングの無知と恥〜「ニッポンの貧困」の真実

 

 

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